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2006年8月31日 (木)

創業の精神

世界最大の総合精密測定器メーカーである「ミツトヨ」の不祥事が問題になっている。

「ミツトヨ」の前身「三豊製作所」の「五十年史」(昭和60年(1985)7月刊)に依ると、同社は沼田恵範氏によって創業された。氏の生家は浄土真宗本願寺派の浄蓮寺であると言う。氏は敬虔な仏教徒であり、会社経営に親鸞の教えを織り込んでいた事でも知られている。
自分自身を深く見つめる事。物欲に流されることなく人間として一番大切なものは何かを問いかけ、その大切なもの(心)を忘れずに生きていく事の必要性」を社員に問いかけていたに相違ない。
氏が生まれた明治30年(1897)には、時代を象徴するいくつかの出来事があった。八幡製鉄所開業(生産は34年から)、金本位制の施行等々、日清戦争後の日本が本格的な資本主義経済の歩みを開始した時でもある。
氏が「三豊製作所」の前身とも言うべき研究所を開設したのは、昭和9年(1934)のことで、社名を「三豊製作所」に変更したのは昭和11年(1936)、以来営々とした努力の結果が精密測定器メーカー「ミツトヨ」として知られるようになった。

この間、世界各地に工場展開をし業容拡大を図り、片山準三社長(一口に海兵と言っても戦時中の大量入学時代とは違って、文字通り全国から俊才をより抜いた時代に海兵にトップ成績で入学したが、同校の気風が気に入らず半年で退学し、翌年一高に入りなおした経歴を持つ)時代に、社訓として「誠実・深慮・敢闘」を制定した。一方、沼田氏は究極的な目的である仏教伝道事業にも注力し「仏教伝道協会」の設立を始め、仏教聖典の頒布、仏教伝道文化賞(受賞者の中には、丹羽文雄・武田泰淳・井上靖・黛敏郎・土門拳・平山郁夫氏等が名を連ねている)等の文化活動も積極的に進めていた。

ミツトヨの経営目的は他社のそれと比べて見ると一種独特な感もあるが、YKKの「善の循環」とも一種共通したものがある。この創業者の精神や、途中から制定した社訓が、其の後何代かの経営者に、どのように受け継がれてきたのであろうか。仏教伝道事業と会社経営とのバランス等の問題をどのように理解し会社運営に当たってきたのであろうか、その間の事情は知らないが、1992年11月に赤字転落。そして最近の不祥事である。

これは、「ミツトヨ」に限った問題ではないと思う。世の中には創業の精神や、社訓などに盛られた精神を忘れ、利益追求型に走る企業が後を絶たない。以って他山の石とすべき問題であろう。

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2006年8月22日 (火)

企業体質

偶々、変人キャズさんの記事を覗いたら、「感度の有無(6) O鉄・バス」があった。私にも似通った経験が在るので、参考に書いてみる。

8月12日靜岡へ行った。靜岡と言っても殆ど清水に近い場所だった。そこで会合が終って静岡駅行きのS鉄バスを待っていた。20分位待って漸くバスが来た。私たちのグループに80歳を越したTさんという女性がいた。生来の弱視の上、足が不自由なので杖を何時も突いていたし、女性の誰かが何時も付き添っていた。

午後6時頃だったろうかバスは割合空いていた。同行の内二人が先ず乗り、Tさんが乗ろうとした時に何かに躓いて倒れた。傍に居た人達も手伝ってTさんを助けて乗せようと多少手間取った。
その時運転手がドアを閉めた。
私は驚いてバスの窓を叩いてまだ乗車していない客のある事を声高に告げた。ドアが再び開けられ漸く乗車し、全員腰掛けられて静岡駅まで行った。幸いTさんは怪我もなくてほっとした。
運転手は乗車口に乗り残し客が居ないことを確認してドアを閉めるのが当然だし、安全運転の為の必須条件である筈だ。その上にバックミラーを見ていて、人の倒れたのが判った筈だ。普通だったら、「お怪我はなかったですか」くらいの事を言っても当然だ。それだけでなく、乗客の一人がバスが別の停留所で停車し動き出そうとした時、お札を硬貨に交換していたら「動いている時に立たないで」と車中に聞えるような声で怒鳴った。サービス精神のかけらも感じなかった。

何度かこのS鉄バスには乗っているが、今回の運転手に限らず、全員とは言わないにしても、このバスの運転手のマナーの悪さは他地方から来ると極めて異常に感じる。城下町だからもっとしっくりした雰囲気があっても良さそうだし、元々はサービス業であることを忘れているのではないか。

このような運転手を雇っている企業の体質を垣間見る感じがする。

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2006年8月18日 (金)

立ち読み

専門的な書物も含め、以前かなり処分したが、捨てきれない書物は、書庫を設けてその中へ収めた。それで身の回りがスッキリしたと思っていたら、またぞろ周囲が埋まり始めた。今度は俳句に関係するものが多い。

そこで、当たり前と言えば当たり前だが、最低限必要な書を除いて図書館を活用し、一方書店での立ち読みをすることにして、散歩がてらに近所の本屋に時々寄る。
偶々今日の立ち読みの俳句の中に、林 翔氏(「馬酔木」顧問、「沖」顧問)の作品の内、心に惹かれるもの数句あり、記憶の範囲内で、作順・季順を無視して下記する。同氏は長野県出身、大正3年生まれ。

    草紅葉朝の千曲は紺極め
    蕎麦が咲き溝蕎麦も咲き信濃かな
    敬老の日を終ふ誰にも敬はれず
    夢覚めて童は翁暁の蝉

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2006年8月10日 (木)

故郷(ふるさと)

私たちは故郷(ふるさと)を持っている。中には何処が故郷なのかと迷う向きが無いでもないが、少数派と見てよいのではないか。

当然の事だが私も故郷を持っている。母のお腹から生まれて最初に吸った空気は信州の善光寺平の空気だった。故郷に居た時に比べて、現住所(浜松市)に居る時間のほうが遥かに長い。にも拘らず故郷は懐かしいし、今も父母が其処に生き続けて居るかのように思う。嬉しい時や悲しい時、切ない時には、きっと故郷を思い出す。私の生家は百数十年を経た藁葺家で此処に父母兄弟と共に暮らした。
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二毛作をこなし、春蚕・秋蚕を飼った。家から離れた田畑には稲や桑が植えられていた。家の周りの畑(屋敷の畑と呼んでいた)は桑を作り、後には林檎を作り、年中休むことなく働き続けた父母と共に此処に暮らした。家は充分に広かったが、蚕を飼う時になると、お蚕さまに占領されて人間は小さく固まって暮らした。
トイレは家の横の物置小屋の庇の下に造られていた。冬でもトイレに行くときには一旦屋外へ出なければならなかった(その時代の建て方は我が家のみならず、他の農家もみな同じ形式で造られていたように思う)。

冬は厳しい寒さの中に暮らした。藁葺家は夏は涼しく冬は暖かい。しかし裏山からの風は結構冷たかった。屋敷の畑は風通しがよかった。隙間風も歳を経た立て付けの為に多少は止むを得なかった。五右衛門風呂にも隙間風が入った。隣近所で貰い風呂をし合った。そんな環境は今からすると劣悪だったが、その当時はそれが当たり前と思っていた。何の不平もなかった。そんな中で親子は助け合いながら暮らした。父の坐る場所は別に誰が決めたわけでもないが、自ずから決まっていた。
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食べるものは自給自足で、野菜類は当然の事ながら、米も味噌も醤油も自家製だった。煮炊きは囲炉裏が使われ、燃料は麦がらや桑の枝、枯葉等で余す所がなかった。着るものの中には、売り物にならない屑繭から母が紡いだ絹で織った着物もあった。太平洋戦争勃発のラジオ放送もこの家で聞いて興奮した記憶は鮮明に残っている。
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家へ入る通路の雪掻きは父の役目だった。雪んぱで、吹雪いた朝は表の通りまで雪を掻いた。夏はその通路の両側には玉蜀黍がびっしりと実をつけた。捥いできては食べた。

昭和33年(1958)頃、この旧家も取り壊され二階建ての現在様式の家に建て替えられて現在に至っている。最近では下水も完備し、風呂も自動新式のものに変えられた。快適な居住空間になった。今、老兄夫婦がこの地で、先祖からの田畑を守り、家を守ってひっそりと暮らしている。

しかし私が故郷を思う時に、まな裏に浮かぶのは、古い藁葺家の姿と、その中に居る父母の姿だ。
大体こんな古い話を持ち出すのは、老いた証拠だと言われるだろう。しかし誰にも心の拠り所が在るものだ。その一つがこの故郷である。

余談だがNHK朝ドラの「純情キラリ」の中に、戦傷して内地に送還され、心を閉ざしてしまった兵が、小学唱歌「故郷」のラジオ放送を聞いてから、心が次第に開けて行くくだりがある。私にはその気持ちが良く判る。故郷とはそのようなものではないだろうか。

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