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2006年6月30日 (金)

続、北国街道 海野宿

       海野宿
 浅間嶺に煙たなびく花林檎  Unnosyuku_11
 春愁や旧家に狭き通し土間
 みちのべに市神祀るすみれ草
 
出格子に春の灯ともる宿場町
 
小流れに卯建の影や余花明り
 
上簇や棟に気抜きの明り窓
 
箱膳に淡き記憶や額の花
 たもとほる旧街道や夏帽子

地名や景観には、歴史やその影を負っている所が多い。平成の大合併や、目先の便利さのみで、それらをいとも簡単に払拭し、忘却の淵に沈めるのは耐え難い。過去は時さえ経てば風化し、やがて消え行くなどとはもっての他。

そんな想いに駆られて「北国街道海野宿(こちら」を訪ねたのは4月の下旬。宿場に平行して流れる千曲川の堤は桜が満開だった。

「日本の道百選」の一つに選ばれた北国街道は、北陸地方へ向かう街道の総称で、江戸時代は参勤交代や佐渡の金の輸送路として賑わう一方、善光寺詣の道としても栄えた。         

北国街道を挟み、「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている海野宿は、小諸と上田の中間に位置し、寛永2年(1625)頃に成立されたと伝えられる。宿場東端に白鳥神社があり、其の前を流れる千曲川の白鳥河原は、治承5年(1181)木曽義仲の挙兵地として知られる。 

街道のほぼ中央には用水が流れている。宿場の東西には桝形が置かれ、その間約6町(650m)の長さになる。宿場時代の建物は多くが旅籠屋で出梁造りや海野格子と呼ばれる二階の出格子が今も景観を添えている。明治期以降は養蚕業で榮え、その富により建築された建物は宿場の風格を受け継ぎ江戸時代のものと調和して現在の町並みを形成している。卯建・気抜き屋根・戸毎の屋号、六文銭の真田紋を配した藍暖簾・立行灯、用水路に影を落とす並木は美しい。歴史民俗資料館に見る箱膳や養蚕具には子供時代の記憶が蘇り、街道から望見する浅間の煙と共に胸が熱くなる。

この地を訪れた馬酔木の俳人、岡田貞峰氏は、
   
青柳や宿場つらぬく洗馬(せば)の水
  
遅桜花神をここに引きとどめ
  
つばめ巣を営む卯建かく連ね
  
たんぽぽの絮の手毬と野仏と
  
義仲の挙兵の河原幟立つ
と、詠っている。

今も、江戸時代の雰囲気が息づいている海野宿を、愛し保存し維持に努力している人達に、感動し感謝し、共感と興奮を覚えた。

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2006年6月28日 (水)

遠州大念仏

三方原合戦(こちら)に就いては史実として知られているが、其の主戦場は特定出来ていない。其の中にあって、主戦場ではないが、唯一特定できるのが、犀が崖古戦場(こちら)である。

其の戦で、地理不案内の武田軍を夜襲して、犀が崖に追い落とし、多くの将士が命を落とした。其の霊を弔って僧、宗円が念仏供養をしたのが、遠州大念仏の始まりと言われるが、今は初盆の家の要請によって行われるようになった。以下、ネット情報から要点のみ抜粋して引用する。

「徳川家康は,毎年7月13日から15日まで、退転なく大念仏をおこなうよう布告しました.(徳川家康により,遠州大念仏は三葉葵を使うことを許されています.)
それ以後,地元の人々は宗円堂に集まっては念仏供養を盛大に繰り広げるようになりました.(注釈:元々はお盆や初盆とは直接関係はなかったようです.)

江戸時代の大念仏
宗円に踊念仏の手ほどきを受けた村人は,それぞれの村に帰ってその手法を伝えました.元々宗教色の強かった大念仏ですが,時が経つのに連れて次第にそれぞれの村での娯楽の一環としての側面が強くなっていきました.(注釈:お盆,初盆宅での供養はこのころ定着したようです.)
時が経つとともに,遠州大念仏の各組の間では次第に覇権を争うようになり,服装も派手になり,組み同士での争いが絶えなくなりました.
そこで,規則や禁止令が打ち出されるようになりました.
たとえば町中では遠州大念仏が禁止(混乱を招くため)になりました.
(注釈:現在,遠州大念仏を継承してる組が浜松の市街地になく,周辺地区に限られているのはこのためではないかと思われます.)
また,あまりにも争い事が多いため,一時,全面禁止にしましたが,農民たちの反対や署名運動(争い事をしないので許可して欲しい旨)などもあり,なかなか禁止できなかったようです.

明治,大正時代(第二次世界大戦前)
このころになると,遠州大念仏創始の由来や意味などを伝承する組もなくなり,宗教色がすっかり薄れてしまいました.
危機感を感じた有志の人たちは,継承する組を一組づつ説得し,遠州大念仏団という組織を作って再興を目指しました.
戦勝祈願や戦没者などのために供養をおこない表彰されています.
第二次世界大戦においては物資供出のため双盤(鐘)を供出したため、大念仏の供養ができなくなりました.

戦後
遠州大念仏団を中心として供出した双盤を取り返すための運動がおこなわれましたが,なかなか取り戻すことができませんでした.
戦後は,静岡県,浜松市,浜北市から無形文化財として認められています.」

以上は概略ですが、現在の大念仏は、無形民俗文化財に指定され、初盆を迎えた家を訪れて庭先で大念仏供養をします。隊列を組み、一庭申す(ひとにわもうす)と言う挨拶をした後、歌枕の唱和に合わせて太鼓きりの踊に入る。両手にバチを持って太鼓を切るように叩き、飛び跳ねたり、地面をこすりながら体で弧を描くような表現をする。太鼓は摺太鼓などとも呼ばれる。

6月24から26日にかけてS誌の全国大会が浜松で行われたが、その際のアトラクションとして遠州大念仏が披露された。他地区からの参加者は勿論ながら、地元の人たちにとっても目の前で踊る大念仏には興味深かった。
Dainenbutu_6
頭先(かしらさき)、幟、頭(かしら)の順序で入場する。
Dainenbutu_1
Dainenbutu_2

道化も出て、和やかな雰囲気を出す。
Dainenbutu_7
  婿に欲し大念仏の太鼓切   廣田みさ江
この句の季語は大念仏であるが、大念仏と言う季語は正式には、嵯峨大念仏で京都の嵯峨野の清源寺で4月第1土・日に催される念仏狂言が歳時記上認められているが、遠州地方で、大念仏と言うとこの行事しか無いので、遠州在の季語として通用しているようである。 

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2006年6月16日 (金)

楽器博物館

浜松駅の直ぐ傍に楽器博物館がある。駅から歩いて10分以内。雨の日でも濡れずに行ける。平成7年(1995)4月に、わが国初の公立楽器博物館として開館した。

世界最大の楽器メーカーであるヤマハをはじめとして、浜松は楽器の街 として知られている(但し趨勢はこちら )。其処に楽器博物館があるというのは、極めて自然の成り行きかも。しかし近くにいると何時でも行けるという気安さもあって案外行っていない人のあるのも事実だ。

偶々其の館内の会議室で会合があった帰途、3年ぶりに見学した。昨年6月から行われていたリニューアル工事も終わり、3月21日にリニューアル・オープンしたばかり。

収蔵資料は3200点、1200点を常時展示している。ヘッドフォンや小型モニターによる音と演奏風景の紹介、イヤフォン・ガイドによる解説、体験ルームでの自由な楽器演奏など「みる・きく・ふれる」展示が充実している。受付の女性達の対応も極めて好感が持てる。此処を訪れた人の再訪する機会は多いという。それだけ感動を催す内容であろう。

此処には世界各地から集められた楽器類が展示されているが、アフリカ、オセアニア、パプアニューギニア等の素朴な楽器類から、近代の楽器類まで、歴史と拡がりも見せ、なんとも言えない感動が待っている。上げればきりがないが1,2点をご紹介する。
Piano_2
一台のピアノに鍵盤が両方から向き合い同時に演奏出来るピアノ。
Piano_4 Harpsicord_3

 





上蓋に綺麗な絵が描かれているピアノやチェンバロ等は、矢張りヨーロッパのもの。
Drum_2
南太平洋のニューヘブリデス諸島にあるバヌアツ共和国アンブリム島の割れ目太鼓。高さ4mという巨大なもので、儀式で使う神聖な物だが、彫刻された精霊の顔はどこかユーモラス。
Drum
タイのクローン・エーと言う大砲の形をした太鼓はまた圧巻である。

浜松を訪れる人達へ。せめて1時間を割いて、御覧頂く事をお奨めします(因みに入館料は、大人400円、70歳以上は無料)。

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2006年6月 9日 (金)

少し歩けば

「車を降りて少し歩けば城址に行ける」と、聞いた。それなら行って見ようと、軽い気持ちで出かけた。

目的地は、浜松市の北縁(今は合併したから浜松市の南北方向の真ん中位か)の三岳(みたけ)山に在る三岳城址。後で調べて判ったが標高467mの山である。
Hyousiki_1 家から車で30分位で、三岳城址の道標があった。その矢印の先には急な石段がある。降車して石段に取り付く。

胸突き八丁のような石段を上る。石段はきつい。ともかく上る。

其の上に三岳神社というお宮が在る。其処へも又石段。

兎に角上る。城址は、そのお宮から左の径を伝ってゆけば行けそうなので「少し歩けば」という言葉を信じて歩くことにした。

Kizahasi

Mitakejinja

ところが「少し歩く」どころではなく、走り根の浮き立った急坂を喘ぎあえぎ登ることになった。道には落葉が積もり、その下に、むき出しの岩があるので滑りやすい。よほど気をつけないと転倒したら大変な事になる。私たち夫婦以外には人気は全く無い。

登ること約2000歩位か(下りでは2000歩だった)。途中まで上ったところで又道標があり、右は二の城址、左は三岳城址とある。右へ少し歩くが端まで行くには時間も掛かりそうなので引き返して、本来の城址を目指す。此処まできたら、行くしかない。Sakamiti_1 Hyousiki2               
 その急坂を登る。そして漸く三岳(三嶽とも)城址に着く。

「三嶽城跡」と書かれた碑が建っている。三岳山上である。急に眺望が開け、はるかに浜名湖、三方原台地、東名高速道等が俯瞰でき今までの汗が吹っ飛んでしまう。

Mitakejyousi_1
国指定の三岳城址は、南北朝時代からの歴史を刻んでいる。
南北朝時代は、後醍醐天皇の皇子である宗良親王の遠江地方の戦略的拠点であったが、やがて足利尊氏の高師泰(こうのもろやす)勢に攻められて興国元年(1340)落城。その間に皇子は天皇の崩御を知り 「思ふにも なほ色浅き紅葉かな そなたの山はいかが時雨るる」 の歌に、城中の紅葉を手挟んで別当資次に送ったという。皇子は大平城に移った。其の後の変遷を経て、戦国時代の戦歴を残している。

城は一の城(本丸)がこの山頂にあり、地域狭小ではあるが、これを中心として幾多の帯状塁段が巡らされ、現在は原型を失ってはいるが尚4,5列は数えられる。本丸の西方には幾多の壕が掘られ、或いは天然の岩石を持つ要塞となっている。
二の城(ニの丸)は、一の城より東の高地一帯にあり、
三の城(出丸)は、現在の三岳神社の境内にあった。

「少し歩けば」を額面どうりに受け取ったのは、失敗だったが、「城址までは相当きつい山路」と言われたら、上り口で諦めただろう。其の点、「少し歩けば」は良かった。兎に角山頂の城址を極める事が出来たのだから。

「少し歩けば」と言ってくれた友人は、昔は野を駆け、山を攀じた猛者だった事を知って、成る程と思った。

                                     

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