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2006年5月28日 (日)

三方原合戦

武田信玄と徳川家康が一戦を交え、家康が大敗して命からがら、浜松城に逃げ込んだ所謂「三方原合戦」は歴史上有名である。

三方原合戦は、元亀3年(1572)12月22日、新暦では2月4日で、申の刻(夕方4時から4時半頃)から行われたので、実際戦が行われた時間は高々2時間位と想定される。しかし其の前に、天竜市二俣(現、浜松市二俣)の二俣城攻めに約2ヶ月を要した事を考えると、たった2時間ほどの三方原合戦の方が有名になる事自体が不思議である。

有名になっている割には合戦の主戦場が何処かが、実際には特定出来ず、唯一、言えるのは犀ヶ崖 と称する場所であるが、これとて主戦場とは言えず、此処から北へ約4Kmの所に三方原古戦場址の碑が建っているが、此処は偶々其処に建てられたに過ぎず主戦場ではない。
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主戦場に就いては諸説がある。以下に記述するのは、松田不秋氏の資料より引用させて頂いたものである。

小豆餅説  旧参謀本部「日本戦国史」の内の「三方原役」によって従来正しいと信じられていた小豆餅(地名)説であったが、昭和33,4年頃、高柳光寿氏(国学院大学教授、日本歴史学会会長を歴任)が今までの定説を覆す異説を発表して騒然となった。

根洗周辺説  家康をおびき出すべく信玄が三方原北縁に陣取ったという事から高柳氏が発表した根洗(地名)説が俄然脚光を浴び、一挙に一般説の地位を確保した。

本坂道大谷坂上説  高柳説が発表された事に刺激され、浜松周辺地域に一斉に三方原合戦の研究ブームが湧き上がり、中でも鈴木千代松氏を中心とする三方原郷土史家一団の活躍が目覚しく姫街道(姫街道 及び 続、姫街道  等、関連資料参照)本坂道が大谷坂に近い三方原台地上とする説を発表した。
その根拠は、徳川方の所在を示す「精鎮塚」が確認され、武田方の塚(一石五輪状のもの)も現存し、一方当時は現在の金指街道(国道257)は存在せず、あったのは本坂道だけという事実から検証している。

いずれにしても②と③は比較的近い場所にあり信憑性が高いとされる。

それにしても3万とも4万とも言われる武田軍が祝田(ほうだ)、刑部(おさかべ)地域に、正月を挟んで半月間も逗留したと言うが、地域にとっては悪夢に等しい期間であったに相違ない。

 

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2006年5月26日 (金)

光り苔

浜松のフラワーパークへ、今行けば「光り苔」が見られると、知人から連絡を受けたので行って見た。光り苔を見るのは勿論始めてのこと。

フラワーパーク内の”クリスタルパレス”と呼ばれる総ガラス張りの大温室の中の一隅に、大きな箱が置かれている。箱の一面に 30cm×5cm 程の蓋のついた窓が空けられていて普段は蓋は閉じられている。蓋を持ち上げて、そのスリットから箱の中を覗き込むと暗い箱の中に綺麗に光っている苔を見ることが出来る。

説明書に依ると「光り苔」は、
「①一科一属一種の小さなコケ植物で ②北半球に広く分布し、日本では中部以北に自生している ③生育場所は大木の根元に出来た小さな洞穴や岩穴で ④自生地の多くは天然記念物に指定されている ⑤今は絶滅危惧種に指定 されている」   と、ある。事実、富士5湖周辺の洞穴や八ヶ岳麓の唐沢鉱泉等には光苔が自生しているようだ。

箱の中に置かれている岩に付着している苔が見事な エメラルドグリーン の輝きを見せている。見た瞬間は、蛍かと思ったが、蛍のように瞬かない。じっと光っている。兎に角、光り苔が文字通り光っている幻想的な光景を始めて眼にした。
箱に入れているのは、昼間の明るい時にでも、その繊細な光を見ることが出来るようにしている為だろう。

エメラルドグリーンに光る訳に就いて、説明書きには、
「原糸体の一つ一つの細胞はレンズ状になっていて光を集めるのに役立っている。原糸体の中には葉緑素が含まれており、射し込む光の向きが変ると光合成が効率よく行えるように移動し並び変る。集められた光がこの葉緑素に反射してエメラルドグリーンに光る」 と、書かれている。原理は原理として兎に角綺麗だ。

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2006年5月24日 (水)

生きる

2005年8月、或る篤農家の話として「忘れない」を書いた。

そのK.H.さんから先日アスパラが送られてきた。その包みの中に例によって手紙が入っていた。今までのような筆書きではなく、ボールペン書きだったが矢張り達筆である事に変りはない。 「リウマチ性の神経痛が年毎にひどくなり腰痛のみならず、手のふるえで文字を書くことが嫌になり殆どペンを手にしなくなりました」 と、言いながら便箋5枚に、懸命に書いたであろう文字が並んでいた。その一部には次のようなことが書かれていた。文中( )内は私の注釈を示す。

「(ペンを手にしなくなった現状に就いて) 行過ぎた文明は地球と生物が育ててきた文化をも蝕むものと、生まれながらの天邪鬼の生き方で、最近の便利主義のあり方に抗って、パソコン等も習得しなかったので、不便に耐えています。
いずれにしても3年余の戦争経験が、人生観を大きく変化させた事は事実ですが、農業が充実感に満ちた人生を産んでくれました
     節くれてふるえ止らぬ掌に
       生きとし生きし稼ぎを思ふ
……定期健診の医者に『今年も病状に余り変化が見られないので自家用農業は出来ますよ』と言われ、老農の遲い春の仕事が始まりましたが、アスパラがどうやら芽を出し始めたので少々お送りします。
作物は人間より素直で正直ですので手抜きをすると、そのまま答を出しますので、やはり今までより食味が劣るようになりましたが(そんなことはない)、安全第一の有機栽培ですので安心してお召し上がり下さい(写真は頂いたアスパラの一部)。

Asparagus

(奥さんの膝痛のことや、重作業の出来なくなったことなどが述べられた後) 80歳を越えると色々と身辺にも問題がありますが、歳歳の取り組みにそれなりの挑戦する課題を考えますと、年齢の衰えは忘れて楽しい生活を味わえる事が判りました。
随分乱暴な文章になり(そんなことはない)、失礼な手紙になりましたが、書き直しは面倒なので、唯ただそれなりに元気で今年も生きている事が判って貰えればと思います。
アスパラの食味に関係させないで下さい。
信州は良い所ですのでお子さん達にも見せてやって下さい。
     花舞いてさ緑の葉に覆れて
        生命をつなぐ実が育ちつつ 
     平成18年5月連休明け   K.H.生より皆様へ」

と、あった。送られてきたアスパラは、根元まで柔らかく、久々に本当のアスパラを賞味出来た。心を込めて作ったアスパラの味は格別だった。
篤農家の誉れ高いK.H.さんが、信州の小字で懸命に生きている姿を眼の辺りにする感じがする。       

       

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2006年5月10日 (水)

山寺 常山

郷土出身で世の中にあまり其の名を知られていない偉人の話を、佐久間象川氏のブログ記事「人間の評価に就いて(1)救国の人」によって始めて知った。

しかもその記事へのコメントに 「信州和算資料目録氏」 の文があって、其の文中に「幸貫公の命で嘉永年間に山寺常山の指図により松代封内の製図(六千分之一)を行った最上流和算家東福寺泰作がいます。」という一文がある。

松代の三山と言われる人に、鎌原桐山、佐久間象山、山寺常山がおり、夫々の立場で、名君と言われた第八代松代藩主「真田幸貫」を支えた。幸貫は水戸烈公の推挙によって老中職を勤め、其の時の救国の話が佐久間象川氏のブログ記事である。真田幸貫に就いては名君として誉れの高かった事は承知して居たものの、これほどの業績を残した人とは知らなかった。

改めてこの記事を書いているのは、その中に出る「山寺常山」に絡む話の一端である。山寺常山と佐久間象山は親友の立場にあって、互いに助け合った仲であるが、最後にはある事を契機に袂を分った事も知られている。

山寺常山に就いて、ネット記事「山寺常山邸」に就いて次のように述べられている。 「山寺家は松代藩で知行160石の中級武士の家格でした。江戸時代の終わりには山寺常山を輩出し、佐久間象山、鎌原桐山とともに松代の三山と称えられました。常山は号で名は久道、のちに信龍と名のり、通称は源太夫といいました。
 常山は若かりし頃、江戸に出て儒学者佐藤一斎や中村敬宇らと親交を深めました。8代藩主真田幸貫の信望も厚く、藩政にも尽力し、寺社奉行、郡奉行を務めたほか、藩士に兵学を教授し、また藩主の側にあってその政務を補佐していました。
 明治になってからは中央政府の招きを固辞し、藩に留まり、晩年は長野に塾を開いて門人の教育につとめました。」 とある。

ところで、その山寺常山と、私の生家は遠い親戚に当たると言う事を、座敷に掲げられていた山寺常山の肖像画もあり、子供の頃から知っていたがどんな関係にあるかは深くは知らなかった。ところが、佐久間象川氏の上記記事と、信州和算資料目録氏のコメントを拝見して、改めて調べてみると、山寺常山の許へ後妻として嫁いだのが私の父方の祖父の妹であり、今も我が家には、常山が着用した裃、紙入れや茶碗と共に、常山の位牌と、祖父に宛てた常山からの手紙や常山が大書した屏風が残っている。常山は晩年、現長野師範学校の裏手の塾へ馬に乗っては通ったと言う。

その常山の孫が塩野季彦で林内閣の法相として昭和12年2月に入閣し、以後第1次近衛内閣、平沼内閣の法相として留任している。私の父も塩野氏が始めて入閣した昭和12年にお祝いの為に父の弟等と3人で上京した事を知っている。

今、殊更にこのような記事を書いたのは、そのような関係だったと言う事を言いたくて書いたのではなく、真田幸貫公の救国の業績と、佐久間象山の先見性と多くの有為の人材を輩出させた功労を思い、そして其の中に加わった山寺常山の名を、ゆくりなく拝見し、懐かしさが込み上げて、思わず書いてしまったと言うのが本音で他意の無い事を付け加えておきたい。機会を捉えて松代に史跡を追って見たい。

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2006年5月 7日 (日)

浜松祭

今年は、浜松祭りの開催期間(5月3日~5日)中、好天に恵まれ延べ188万人が凧揚げ、御殿屋台の引き回しに繰り出した。

浜松で初の男子が生まれると其の成長を祝って、其の子の名前を入れた凧(初子凧と呼ぶ)を揚げるのが恒例となっている。最近では少子化の影響もあって初の女子でも揚げるようになった。浜松に嫁いだ娘に男の子が生まれた20年前、私も駆けつけて一緒に祝ってやった。それ以来凧揚げ会場に行く事も なかったが、今年は或る事情もあって20年ぶりに凧揚げを見てきた。

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会場は日本三大砂丘の一つに挙げられている中田島砂丘の一角で、遠州灘の風をまともに受ける好位置とあって、今年は170町の参加となった。去年の7月に新に合併した市町村からの初参加はなかったと言う。

Iwaitaiko 祝い太鼓の鳴り響く中を各町から繰り出してくる。

浜松まつり会館の説明に依ると、 「浜松まつりの代名詞ともなっている「凧合戦」は、大空を勇壮に乱舞する浜松市内各町自慢の大凧を使って、糸の摩擦で相手の凧糸を切り、勝敗を競う。空中で凧糸が絡みあうと、合戦が始まる。相手凧に勝つためには、糸先(組長)の合図によって行われる転機(滑車)の操作や、この時の強いチームワークがポイントとなり、各町組員の団結力が勝敗のいかんを左右する。そして、凧合戦の熱気あふれるムードをさらに盛りあげるのが、高らかに鳴る進軍ラッパだ。この音によって、若衆たちの血は一層たぎり、合戦はますます白熱化する。凧合戦の勝敗を握る凧糸は、摩擦に強く、しかも丈夫な物が要求される。浜松の凧糸は、撚が強く、激しい合戦にも耐えられる強度を誇っているが、切れた場合に継ぎやすいように工夫がこらされている。」  とあるが、最近ではこの合戦は最後の日に限って行われるようになった。以前この種の行事に、つき物の喧嘩が多かったが、最近では厳しく規制が敷かれてこの種の行為は全くなくなった。凧糸は各町が同条件になるように、祭り会館から支給される正式の糸しか使えない。

写真は凧揚げ会場風景と、切り結ぶ凧糸の状況。

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「夕暮れとともに、祭りの舞台は市内中心部へと移り、御殿屋台の引きまわしが始まる。御殿屋台は、明治後期、凧揚げ会場へ弁当や湯茶を運んだ大八車に、凧を積んだのが始まりといわれている。やがて大正期になると、造花や提灯を飾りつけお囃子連中が中に入って歩きながら演奏をした”底抜け屋台”が作られ、昭和3年に初めて唐破風様式を取り入れ彫刻も随所に施した”御殿屋台”が登場した。年々屋台は豪華なものとなり、道中を一段と賑やかにし、伝統の祭りは一層華やかさを増して市民や観光客の目を楽しませている。大正中期には昼は凧あげ、夜は屋台引きまわしとそれぞれ独立した。」Yatai  因みに今年新調の和田町の屋台は1億円かかったという。

今年、久しぶりに凧揚げ風景を見て、従来「やる方は楽しいが、見るほうはそれほどでもない」と思っていた事は、どうやら違っていたようだと思った。町中が楽しんでいるし、整然と統制の取れた行動、役割分担は見事だ。年配者が若いものを指導し、若者はよく其の指示に従っているのを見ると、気持ちがよい。それにこの祭りは矢張り絵になる。凧揚げも御殿屋台も。ただ豪華さの行き過ぎにならないことを願う。

伝統的な行事には必ず歴史が絡む。それだけに大切にしなければならないとの想いもあった。

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2006年5月 1日 (月)

北国街道 海野宿

旅籠養蚕の面影を残す海野宿を歩く。天気は花曇でGW直前とあって、訪問する人もまばらで、其の分ゆっくりと散策できた。近くの千曲川の堤防の桜は満開だった。

この前来た時は、「小県(ちいさがた)郡東部町」だったが、今度来た時は「東御(とうみ)市本海野」になっていた。なんだか馴染みの無い地名に些かがっかりする。平成の大合併で日本中で、7年前に3232あった市町村が現在は1820にまで減り、町は1994から844に、村は568から197になったという。それに伴って地名の変更が行われたが、地名には歴史が刻まれているだけに、安易な地名変更は歴史の影まで払拭してしまう。そんな例が多いのが気がかりだ。

北国街道海野宿は、信州小諸と上田の中間に位置し、浅間を背に千曲川の邉にひっそりと佇んでいる。東西650㍍の細長い宿場町の東端の駐車場に車を置き、東部枡形の白鳥神社にお参りしてから宿場に足を運ぶ。
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重要伝統的建造物群保存地区」に指定されているこの旧宿場町の街道の、ほぼ真ん中を用水が流れている。各戸には石の橋が渡され、橋に並んで一段下がって流れに近い洗い場を設け、水を使い易く工夫されている。宿場時代の建物は多くが、旅籠屋で出梁造りや海野格子と呼ばれる二階の出格子が今も美しい佇まいを見せてくれる。

Unnosyuku_7_1 建物には卯建(うだつ、梲とも書く)が張り出し、隣家から火が燃え移るのを防いでいる。

左の写真の上は、本卯建を、下は袖卯建を示す。

卯建は防火壁というより家の格式を示す意味が強く一種の装飾として作られた。

Unnosyuku_8 「うだつが上がる」などという語は此処から出ている。日本にも各地に卯建が見られるが、兎に角此処の卯建は美しい。

明治になってから宿場町は養蚕業で発展するようになる。

下の写真に見られるように、屋根の上に気抜きと称する小屋根を設け、下から紐で開閉出来る板戸を設け、室内温度を調節し養蚕に適する構造となった。

格子の美しさと気抜きが調和していて景観を保っている。

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Unnosyuku_3_1  宿場のあちこちにあるマンホールの蓋も宿場の模様を良く表現している。

各地のマンホールの蓋にはその土地の特色が良く出ているのでそれらを見るのも楽しみの一つだ。

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海野氏の出自には諸説があるが、時代は変り、やがて真田氏の登場となり、店の入口には六文銭の旗印が眼に付く。

宿場の一角に一茶の句碑が建っている。

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「夕過乃臼の谺の寒哉  一茶」

歩き疲れて入った蕎麦屋の番頭さんの宿場の説明が気に入った。お陰で蕎麦の味が一段と増したように思った。

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