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2006年5月10日 (水)

山寺 常山

郷土出身で世の中にあまり其の名を知られていない偉人の話を、佐久間象川氏のブログ記事「人間の評価に就いて(1)救国の人」によって始めて知った。

しかもその記事へのコメントに 「信州和算資料目録氏」 の文があって、其の文中に「幸貫公の命で嘉永年間に山寺常山の指図により松代封内の製図(六千分之一)を行った最上流和算家東福寺泰作がいます。」という一文がある。

松代の三山と言われる人に、鎌原桐山、佐久間象山、山寺常山がおり、夫々の立場で、名君と言われた第八代松代藩主「真田幸貫」を支えた。幸貫は水戸烈公の推挙によって老中職を勤め、其の時の救国の話が佐久間象川氏のブログ記事である。真田幸貫に就いては名君として誉れの高かった事は承知して居たものの、これほどの業績を残した人とは知らなかった。

改めてこの記事を書いているのは、その中に出る「山寺常山」に絡む話の一端である。山寺常山と佐久間象山は親友の立場にあって、互いに助け合った仲であるが、最後にはある事を契機に袂を分った事も知られている。

山寺常山に就いて、ネット記事「山寺常山邸」に就いて次のように述べられている。 「山寺家は松代藩で知行160石の中級武士の家格でした。江戸時代の終わりには山寺常山を輩出し、佐久間象山、鎌原桐山とともに松代の三山と称えられました。常山は号で名は久道、のちに信龍と名のり、通称は源太夫といいました。
 常山は若かりし頃、江戸に出て儒学者佐藤一斎や中村敬宇らと親交を深めました。8代藩主真田幸貫の信望も厚く、藩政にも尽力し、寺社奉行、郡奉行を務めたほか、藩士に兵学を教授し、また藩主の側にあってその政務を補佐していました。
 明治になってからは中央政府の招きを固辞し、藩に留まり、晩年は長野に塾を開いて門人の教育につとめました。」 とある。

ところで、その山寺常山と、私の生家は遠い親戚に当たると言う事を、座敷に掲げられていた山寺常山の肖像画もあり、子供の頃から知っていたがどんな関係にあるかは深くは知らなかった。ところが、佐久間象川氏の上記記事と、信州和算資料目録氏のコメントを拝見して、改めて調べてみると、山寺常山の許へ後妻として嫁いだのが私の父方の祖父の妹であり、今も我が家には、常山が着用した裃、紙入れや茶碗と共に、常山の位牌と、祖父に宛てた常山からの手紙や常山が大書した屏風が残っている。常山は晩年、現長野師範学校の裏手の塾へ馬に乗っては通ったと言う。

その常山の孫が塩野季彦で林内閣の法相として昭和12年2月に入閣し、以後第1次近衛内閣、平沼内閣の法相として留任している。私の父も塩野氏が始めて入閣した昭和12年にお祝いの為に父の弟等と3人で上京した事を知っている。

今、殊更にこのような記事を書いたのは、そのような関係だったと言う事を言いたくて書いたのではなく、真田幸貫公の救国の業績と、佐久間象山の先見性と多くの有為の人材を輩出させた功労を思い、そして其の中に加わった山寺常山の名を、ゆくりなく拝見し、懐かしさが込み上げて、思わず書いてしまったと言うのが本音で他意の無い事を付け加えておきたい。機会を捉えて松代に史跡を追って見たい。

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コメント

Alpsさんのブログ記事には、読んで愉しいだけでなく、時には、非常に感銘深くて、自分のブログにも関連事項を書きたいと刺激を受けることがよく有ります。
刺激が強烈過ぎると、私の小さな頭脳の中で連想の連鎖反応が制御しきれず暴走・核爆発を起こします。2005/8/2「忘れない」、10/11~20、の一連の記事、が正にそれで、結局、関連記事を書けずに今に至っている。
今回また、その気配があるので、取り合えずコメントで。

①常山と象山という傑物同士が袂を分かった経緯とはどの様なものであったか、機会があったらお書きになってください。
②この記事の最後の節は私見では好ましくない。先祖が立派であった事を子孫は誇るべきだし、親の悪行を子供は恥しく感ずるべき。その感覚がなくなり「親と子は別人格」「死ねば皆、仏様」の考えが気楽に言われるようになって、自分の行為が子孫にまで影響し、責任が有る、との感度が消失した。
常山とのご縁をAlpsさんは、もっと大袈裟に誇って欲しかった、と私は思います。
尤も、目立ちたがり、と目立つのが嫌い、は個人の嗜好の問題もありますが。

投稿: 佐久間象川 | 2006年5月12日 (金) 04時56分

佐久間象山と言えば郷土の偉人。幼少の頃は「妻女山から槍が降る、佐久間の家から石が飛ぶ」と言われるほどの腕白だった。其の性格は後にも尾を引き、舌鋒鋭く、信じた事は自説を曲げたり中途半端な妥協をしなかったようで、そのために敵も多く作った傾向がある。象山を重用し幸貫も偉かったが、建策魔のような象山の先見性は抜群だったが、その過程では何度も失意と欣喜の繰り返しがあったという。
その象山と親友関係にあって幸貫を補佐した、山寺常山との訣別に就いては又稿を改めて書いてみたい。

投稿: Alps | 2006年5月14日 (日) 08時08分

私は山寺と申します。山寺氏の消息を調べております。参考になりました。

投稿: 山寺 勉 | 2014年12月31日 (水) 12時07分

山寺と申します。山寺氏の消息を調べております。参考になりました。

投稿: 山寺 勉 | 2014年12月31日 (水) 12時09分

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