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2006年4月21日 (金)

イオニア式柱

浜松の中心部に靜岡銀行浜松営業本部がある。

その建物の柱の構造を見て、これは古代ギリシャ神殿の柱の構造を模した物ではないかと思った。石造の柱頭の構造は、イオニア式柱頭と一般的には呼ばれている柱で、柱頭に左右対称の渦巻状の飾りのつくのが特徴である。静岡銀行の柱はまさしく、イオニア式の柱と言ってよい。古代ギリシャ神殿の柱には、イオニア式の柱以外に、ドリア式、コリント(ス)式、エオリア式等がある。それ等の解説はネット上の下記「ギリシャ神殿の構造」の内に、柱の事が述べられているので参考にさせて頂いた。写真は静岡銀行浜松営業本部の正面入口の風景である。

Sizuginhamamatu

柱の上の左右対称の渦巻き模様が美しい。そう言えば確かにヴァイオリン頭部の渦巻き模様もイオニア式から取った物かも。

 

 参考:「ギリシャ神殿の構造」の内から、

柱 Säule

ギリシャ神殿の柱の形は後にヨーロッパの建造物にも模倣され、その装飾は後世のいろいろな構造物に部分的に見られます。楽器においても例えばバイオリンの頭部の渦巻はイオニア式の渦巻に起源を思わせますし、かつての装飾的なピアノでは実際にイオニア式やコリント式などの柱頭を脚部に使用したりしています。シンプルな現代ピアノでも脚部には柱頭がつけられていますが、これも起源をたどればここに到達します。

柱の構造 ― 柱頭 Kapitell

ドリア式柱頭 Dorische Kapitell
ギリシャ神殿中もっともよく見られる柱頭で柱と梁の間をアバクスが支えるというシンプルな構造です。アバクス下部にはエヒヌス Echinusと呼ばれるお椀型があります。ドリア式柱の足元には土台がありません。

イオニア式柱頭 Ionische Kapitell
柱の上に左右対称になった渦巻がのり、その上にアバクスがのるといった構造です。アテネのアクロポリスではこのイオニア式とドリア式の柱が巧みに配置されています。

エオリア式柱頭 Aeolische Kapitell
柱の上にアカンサスがあり、その上にアバクスがのっている形です。アカンサスとは葉アザミの葉を模った飾りでこのほかコリント式やこの後に登場するヨーロッパ建築でしばしば用いられます。

コリント式柱頭 Korintische Kapitell
柱の上から放射状にアカンサスがのび、またその内部から渦巻が吹き出るようにのびていてその上にアバクスがのっているという複雑な構造を持っています。 後の古代ローマではコリント式柱頭をモチーフとした柱頭が使われます。

足と土台 Fuss und Basis

イオニア式やコリント式の柱には饅頭型の土台(Basis)がありますが、前述のようにドリア式の柱には土台がありません。柱には溝(Kannelierung)があるものと溝のないものがあります。

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2006年4月19日 (水)

緑の桜

友人から「緑色の桜を見たことがあるか」と言ってきた。不勉強で見たことがない。「今、フラワーパーク(浜松市舘山寺町195)に咲いているから、今なら見ごろ」と言ってくれた。出不精の私だがそう言われては、重い腰を上げざるをえない。早速行って見た。

ソメイヨシノは既に葉桜になっているが、今頃こんなに多品種の桜が満開になっているのに一驚した。フラワーパーク内の八重桜並木には、王昭君・鬱金・御衣黄・楊貴妃・普賢象・浅黄・一葉・麒麟・紅ひよんどり・東錦・塩釜桜………約20種類もの八重桜が妍を競っていた。

問題の緑色の桜は、御衣黄(ぎょいこう)と鬱金(うこん)。御衣黄に就いては、「江戸時代から知られ良く栽培されてきた、典型的なオオシマザクラ系の一品種で、花弁は黄色地に緑色の線条があり、花の盛りには中央部に赤色の線が入る特異な花である」と説明書きにある。

Gyoikou

江戸時代からあったと言うから、私はよくよく不勉強だったと思う。不勉強序に他の八重桜も良く見てきた。

Oushoukun 左の写真は上から王昭君、鬱金(うこん)、楊貴妃である。

王昭君はオオシマザクラ系の一品種で江戸時代から知られた、やや小型で小庭園向き。  鬱金はオオシマザクラ系の里桜で御衣黄に似ているが色が単一で緑色の濃淡が少なく赤い線条も入らない、黄桜・浅黄桜・黄金桜の別名もある。  楊貴妃は昔から奈良にあった有名な品種でオオシマザクラ系で18~20弁の八重先で豊かに咲いた姿が楊貴妃を連想させる」と、説明書きにあった。

Ukon_1 すっかり八重桜に魅せられて、フラワーパークの年間パスポートを買ってしまった。

園内にはチューリップも咲き乱れ、フラワー号という簡易移動車も走っている。

Youkihi_1

桜を詠んだ俳句や短歌は多い。それだけ日本人にとっては桜は、身近で愛されてきた花であろう。

  

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2006年4月12日 (水)

奥の細道むすびの地、大垣

4月7日同好の士と共に、芭蕉翁「奥の細道むすびの地」大垣を訪問した。「奥の細道」序文は、

「月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯 をうかべ、馬の口とらえて老をむ かふる物は日〃旅にして旅を栖とす。 古人も多く旅に死せるあり。 予もいづれの年よりか片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海濱にさすらへ去年の秋江上の
破屋に蜘の古巣をはらひてやゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の
物につきて心をくるはせ、道祖神のまね きにあひて、取もの手につかず、云々」という名文から始まる。

「奥の細道Wikipedia」ではその旅立ちと、むすびの地大垣に就いて、

旅立ち

元禄2年春 芭蕉は旅立ちの準備をすすめ、隅田川のほとりにあった芭蕉庵を引き払う:

  • 草の戸も 住み替はる代(よ)ぞ ひなの家

3月27日 明け方舟に乗って出立し、千住で船を下りて詠む:

  • 矢立の初め
    • 行く春や 鳥啼(なき)魚の目は泪

大垣

8月21日頃、大垣に到着。門人たちが集い労わる。
9月6日 芭蕉は「伊勢の遷宮をおがまんと、また船に乗り」出発する:

  • 結びの句
    • 蛤(はまぐり)の ふたみにわかれ行く 秋ぞ

と、述べている。

大垣には、「ミニ奥の細道」として、奥の細道全行程約2400Kmを、愛宕神社(錦町)からむすびの地(船町)までの約2.2Kmを、奥の細道に見立てて「奥の細道」で芭蕉が詠んだ句から代表的な20句を選んで、水門川に沿って句碑が建てられている。写真はそのむすびの地である船町港跡に建てられている句碑で、手前は「蛤のふたみに別行秋そ(芭蕉)」で左奥は「惜ひひげ剃たり窓に夏木立(木因)」。

Kuhi_1

付近には川燈台があり往時、大垣・桑名間には蒸気船が周航していた。川燈台はその夜間の目印として建てられたもの。

Kawatoudai_1

Taraibune_2   水門川の両岸は今、桜の真っ最中で名物の盥舟を浮かべて旅情を楽しんでいる風景も散見される。

川底には水草が生い茂り、川の流れに従って緑の帯をなびかせていた。

Hasisakura

川には多くの橋が架けられていて、それが皆異なった形と色彩で美しい。

橋の欄干に擬宝珠が取り付けられているのも特徴の一つ。

Denwa 玉子屋本店で昼食を摂る。朝食が早かったのも手伝って美味しい昼食だった。

階段の途中に昔懐かしい電話機があった。手にとってハンドルを回してみたら手応えがあったから、ひょっとしたらまだ使えるものかも。

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2006年4月 6日 (木)

柳絮飛ぶ

「柳絮(りゅうじょ)飛ぶ」とは言い古された言葉だが、今まで見ても気づかなかったのか、気づいても柳絮とは思わなかったのか。ところが、先月の23日に偶然通りかかった池の邉で柳恕の飛ぶ前の姿を見つけた。

「春、柳が葉ののびない前に、暗紫色の花をつけ、実を結んで熟し、綿のような種子を飛ばす。柳絮である。風のない日も、静かに虚空に漂うさまは、春ののどかな趣である」と、日本大歳時記にある。

あれから2週間経った今日(4月6日)、行って見たらもう芽柳になっていて、柳恕は影もなかった。年々歳々同じものを見ていても感じ方の違うのも人間なら、心に陰影として留めるのも人間だ。

  吹くからに柳恕の天となりにけり  軽部烏頭子

  柳絮とび河原明るく穂高立つ    澤田 緑生

  月の夜の海なき国を柳恕とぶ   飯田 龍太

Ryuujyo

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2006年4月 4日 (火)

夜もひるのように輝く

浜松の生んだ偉人の中で、今は知る人ぞ知る人に、長谷川 保さんが居る。私とは或る出会いを通じて何回かお会いしている。その著「夜もひるのように輝く」は今も影響を与えてくれる書だ。この書の読後感を通じてS.氏との往復書簡は今も新鮮なものがある。

「夜もひるのように輝く(講談社)」の読後感と往復書簡

 

S.氏へ

考えてみれば長谷川さんと私とは、私が前に住んでいた町では隣保で、今の、S.住吉病院を拡張する時に、その場所に住んでいた私の家を含めて4軒を買い取りたいと長谷川さんが何回か自分自身で交渉に見え、最後には私が代表として纏めたのは昭和43年だった。(中略)

 本書を読んで、改めて長谷川さんという人の偉大さを認識しました。現、Y社の労働争議やK.さんの話も懐かしく、私の知らない秘話も沢山含まれていて興味深く読ませてもらいました。(中略)

 自叙伝は、ともすると都合の良い所を抜粋して書かれる場合が多いように聞いていますが、それを割引して読んでみても凄い人だと思いました。時代の流れの中にあって、周囲がご都合主義的に左右に振れる中で自分を貫いた長谷川さんの毅然とした信念と行動力には圧倒され、これが現在の繁栄を招いた根源でしょう。

 浜松の生んだ偉人の一人として誇れる人ですね。(後略)

   

S.氏より

 多くの方に読まれ、今もS.病院の歴史と言うか「S.病院の聖書」として取り扱われています。只、私はアウトサイダーなのでしょうか。これを小説風自伝と見るより自伝風小説と見る思いが強いのです。

 それが先日差し上げた文章になるのですが、書いたものを読みつつ伝えるというのはどういう事なのか。考えてみると聖書でも、昔は歴史の事実と信じられていましたが、今は歴史の事実ではなく、マルコなりルカを書いた記者の信仰告白の文だと言われています。夫々の記者が、そのおかれた場、それには年代もありましょうし、農民層なのか小市民層なのかによって、イエスをどうとらえ、どう伝えようとしたのかによって書かれたものであって、今となっては歴史の事実を書かれたものを通して知ることは難しいと言われています。その点「夜もひるのように輝く」は、聖書と違い、ご本人が書かれていますから、聖書よりは歴史の事実を反映しているかと思います。ご興味がありましたらゲッセネマの祈りの箇所を比較してみて下さいますと 、(マタイ伝26章36節~、マルコ14章32節~、ルカ22章39節~、ヨハネ18章1節~、園とは有るが苦悩の記事なし)伝えるとは何かを考えさせられます。

 しかし文章を書くにしても何を訴えようとしているのかを持っていないのは、心を打ちませんね。遠藤周作でしたか、聖書の記事に就いて、事実でなくとも真実だと言うような事を言っていましたが、これが事実だと言っても、それは何だったのか、其処には何も行動を起させるものが起きて来なかったのではないか。その点、長谷川さんの文には人を揺り動かすものがあります。それはT.さんの文にも有ります。長谷川さんの人間生きたようにしか老い得ない」という言葉を思い出します。

 心を打つ俳句 は、それまでの生き方の反映なんでしょうかね。T女さんの句集を読みつつ、句集を通して彼女の人柄と言うか生き方が感じられます。

Hasegawat

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蘇民将来

聖武天皇時代に発せられた国分寺創立の詔により、各地に国分寺が創立された。其の中でも信州上田の、信濃国分寺は有名で、仁王門・本堂・三重塔・鐘楼等を始め主たる建物が現存している。

Ueda_kokubunji_2 この国分寺で受ける護符の「蘇民将来」は有名である。

「蘇民将来は木製の六角又は八角で塔状をなすものや守札があり『大福長者蘇民将来子孫人也』などと記す。八坂神社末社や長野県上田市国分寺の八日堂をはじめ諸国寺院から出す」と広辞苑にはある。

Ueda_kokubunji2 蘇民将来という情深い者が、巨丹(こたん)長者に宿を断られた旅人を厚く遇し、その言葉に従い柳の木に「蘇民将来子孫人也」と書き、これを携帯し門戸に掲げて、その子々孫々が災厄を免れ繁栄したという説話による。

この旅人は薬師如来の化身である牛頭(ごず)天王であって、奈良時代からこの信仰が広く広まり、薬師如来や牛頭天王を祭った各地の社寺では「蘇民将来子孫門戸也」と書いた紙札や板のお守りなどを出されたが、現在まで伝わっているものは極めて少なく、この信濃国分寺のものが最も著名となっている。

この蘇民将来の原木はドロヤナギ(ヤマナラシ)で、この木は木目が目立たず加工しやすい事や、薬木と言われていることなどの理由で信濃国分寺ではこの木を使っている。信濃国分寺の蘇民将来は大小7種類あり、高さ3寸(約9cm)の護符は常時お参りに行ったときに受けることが出来、最大のものは正月の8日まで(受けられる人は念の為日時確認要)の参拝者に限って受けることが出来る。(蘇と蘓は同字)

Somin_syorai

今回受けてきた蘇民将来は3寸もので、嘗て京都の石塀小路を歩いた時にも、伊勢神宮の土産店街でも見かけた事がある。

各地に残るこの種の信仰は、土地人にとっては特に大切なもので、この種の信仰が気持ちの上に潤いを持たせ、祖先崇拝にも繋がっている事を見逃す事は出来ない。

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2006年4月 2日 (日)

美しくも懐かしく

5ヶ月ぶりに山へ行って来た。春は名のみで木々の芽吹きにはまだ多少間がありそうだが、息吹は確実に足元にやってきていた。庭には蕗の薹が小さく顔を覗かせていた。Yama_4

渓側の木々は老木が多いが、矢張り春を迎える喜びを何となく感じさせてくれる。

Yama_1

着いた翌々日、朝起きてみたら一面の雪だった。淡雪で間もなく日が当たったら消えてしまった。

Yama_2

前の道を歩いてみると足跡がくっきりと春の雪景色を描く。

Yama_3

雪国に生まれた私が雪の降っている姿と、雪景色を眺めるのは久しぶりだ。雪を見ていると子供の頃の事が髣髴とまな裏に浮かんでくる。父が、けだしの雪をかいている姿、畑の桑の木々が朝日に煌いている姿、一面銀世界の裏山の景色等々。過去は辛かった事を昇華し、美しくも懐かしい景を蘇らせてくれる。ただ今年の豪雪ではご苦労のあった地方の事も脳裏を掠める。

冬の豪雪とは違って、春の雪は、淡雪、沫雪、牡丹雪などとも呼ばれ、降り積もった雪がまばらに見えるさまを斑(はだれ)雪、はだら雪、はだら、はだれ野とも言い、雪の降り終いを雪の果、名残の雪、雪の別れ、忘れ雪などとも呼んで其の情緒を表現している。

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