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2006年3月20日 (月)

続、そこに夢があるから

沢木耕太郎著「」の読後興奮覚めやらぬ内に、雑誌「選択3月号」が送られてきた。この雑誌は完全予約制で店頭販売はされていない。その3月号の中に山野井妙子の記事が掲載されていた。

sentakuこの雑誌に、この種の記事 が掲載されるのは珍しい。内容は 「登山家・山野井妙子の『驚異の不屈』・指18本失ってもなお岩壁に挑む」 がタイトルである。其の記事の一部を、「そこに夢があるから」 の補足として抜粋記述する。

「何度も生死の境を潜り抜けてきた二人は、壮絶な状況の中でも決して生きることを諦めない」

「二人はどの山に登ってもゴミ一つ残さない事を自らに課してきた」(註:事実、帰国後体力の回復を待って、其の時のロープの切れ端を回収に行って、それは探し得ず結果的に、他人が捨てていった缶1個を回収して帰った)

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「二人の登り方は自らの身体を鍛え上げて、シェルパや固定ロープ、酸素ボンベなどの補助道具に頼らずに、少人数で困難な岩壁や高峰を登ろうとするスタイルである」

「TV局からエヴェレスト登山を打診され、高収入になると判っていても、自分の山ではないと拒否している。自分の金で自分の望む山へ自分たちの思うスタイルで登る。それが二人のこだわりなのだ」

「94年には、登山界をあっと言わせる記録を打ち立てる。世界第6位のチョー・オユー南西壁を、遠藤由香と二人で登ったのだ。超一流のクライマーが日本にいて、それが女性である事を世界に知らせる快挙となった。泰史も同行し、単独で南西壁新ルートから登頂している。三人の隊は装備・食料総重量250Kg、8000m峰の登山隊としては驚くほどシンプルな隊だった」

妙子はギャチュンカンに挑む時には既に両手指に傷害を持っていた。91年8463mのマカルーを無酸素で登頂した帰路、厳しい洗礼をうけ両手足の指18本を失いそのほとんどは第2関節の上からの切断である。ギャチュウカンでは更に第2関節の下となったが…。泰史は、ギャチュンカン登頂の凍傷で、右足の指全部と両手の指5本を失った」

「ギャチュンカンでの苦闘の描写に、沢木(「凍」の著者)のこんな一文がある。『なにより、妙子の強さを支えているのはその強靭な精神力にあるように思える。自分はクライミングが好きだという一点から揺らぐことがない。妙子は、好きなクライミングをしている限り、どんなことでも耐えられるのだ』と。泰史と共通した強さである」

私的補足:①選択に記されているギャチュンカンの高度は7952mとなっているが、諸説がある。さきに書いた「そこに夢があるから」の7985mは、チベットからの正式入山許可証に記載されているチベット山岳協会公認の高度である。  ②山野井が登るコースは、前人が未だ実績のない新ルートを常に目指す。登れるということと、登れたという事はとてつもない大きな情報である。たとえ登られたルートの詳細がわからなくとも、誰かが登ったというだけで、その山の難しさの何割かは減ることになる。

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2006年3月18日 (土)

そこに夢があるから

山の友人に根岸利夫(文中敬称略、以下同じ)が居る。彼はヨーロッパ三大北壁(アイガー、マッターホルン、グランドジョラス)の内の二つまでを登攀登頂した猛者で、彼が常住する山小屋には三連休以上になるとクライマー(登攀者)達が時々集まって来る。其の中に、鉄人登山家と言われるラインホルト・メスナー等と並び、現時点で世界最強クライマーと呼ばれる山野井泰史と其の妻妙子も時々やってくる。

ある時、根岸から「今、山野井君等が来ているから来ないか」と声が掛かった。日登(日本登攀クラブ)のメンバー6人が来て居てその中に山野井夫妻も居た。写真後列の真ん中は根岸、その両側は山野井夫妻である。

2002年秋、泰史はヒマラヤの難峰ギャチュンカンに単独登頂後、下降中嵐におそわれ妻・妙子と共に決死の脱出を試み、高所ビバーク、雪崩の襲来、視力低下、食料も登攀具も尽きた中で奇跡的な生還を果たした。こうしたこれまでの果敢な挑戦を認められて、2002年度の朝日スポーツ賞、第7回植村直巳冒険賞を受賞した。

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丸山直樹著「ソロ(単独登攀者 山野井泰史)」によると、「妙子solo はマッキンリー、エベレストなど多くの高所登山を経験し、男より強い事で知られている。グランドジョラス北壁ウォーカー側稜を女性では初めて冬季登頂を成功する等クライマーとしても一級の実力を持ち……」と記されている。勿論現在日本に於いて女性最強のクライマーであると共に世界有数の女性クライマーである。

一般の登山家は、スポンサーをつけて費用を賄うのが普通であるが、山野井は自分で稼いだ金でしか登らない。其の上、夫妻はTVやマスコミに出る事を好まない。

彼らのクライミングのスタイルは、「アルパイン・スタイル」と言う。古典的な「極地法」或いは「包囲法」とよばれる大規模な登山方式は、第一キャンプ、第二キャンプを設営し、最終キャンプから選ばれた人が山頂を目指す、総力戦であるのに対し、アルパイン・スタイルは酸素ボンベも持たず出来るだけ軽装で、ベースキャンプから一挙に単独で山頂をめざす。従ってスピードが要求される。vertical_wall

ギャチュンカン登攀は厳しかった。5900mから6700mまでは5時間弱で登れたがそれからの300mを登るのに、実に11時間を要した。その間、全く飲まず食わずだった。頂上を直前にして妙子は体調から登頂を諦め、泰史は単独で登頂する。8000m級の山は居るだけで体力が消耗する。従って単独登頂したら寸刻を待たずに下降する。事実泰史がギャチュンカン登頂を果たした時も頂上で泰史は亀が首を動かして辺りを見回すぐらいのことしかしなかった。登ってきたルートを降りるには傾斜がきつすぎる。遠回りになるが少しでも傾斜のゆるいところを選んでクライムダウン(後ろ向きになったまま降りて行く方法)してゆこうと泰史は決心した。

山野井泰史著「垂直の記憶」には死の恐怖と戦いながらの記録が克明に記述されているが恐らく文字で表現する事が不能なことの起こっているのが実態であろうと思う。その本の中に、ギャチュンカン登攀の事も記されているが、凄惨な戦いであった事が判る。tou

ギャチュンカン(7985m)登攀の凄惨な戦いは、沢木耕太郎著「凍(とう)」に詳しい。

突然の雪崩、それも何回も襲ってくる。電車やバス程の氷のような雪の塊が、突然轟音と共にくる。妙子は50mも吹っ飛ばされ、巌から垂れ下がったロープによって宙ぶらりん状態で留まった。泰史が打ったハーケンが効いていた。巌の角でロープは黄色の外皮が切れ、中の白い芯も切れ掛かっている。妙子は、いちかばちかで 、2mほど右にある固そうな雪の壁に振り子のように体を振って飛び移ることを試みる。或いはロープが切れてしまうかも判らないがやるしかなかった。何回か敢行して壁に張り付く事が出来た。体だけは確保したものの衰弱が激しく視力がなくなってくる。

ベースでは物凄い雪崩と、下山時間が過ぎても下山しないので遭難したものと考えていた矢先、衰弱し視力を殆ど失いかけた泰史が、夢遊病者のようにたどり着いた。ベースを引き払う寸前だった。それから妙子の救出行が始まる。かくして奇跡的に九死に一生を得て二人は帰還するが、手足の指を凍傷で失う等代償も大きかった。

何故これほどまでして山に登るのか。嘗てマロリーは「そこに山があるから」と答えているが、識者によれば「そこに対象があるから」が本意と言う。

山野井には「山は征服するもの」という不遜な考えはない。あくまで山に対する畏怖と謙虚さを持ち続ける。丸山に依れば、泰史の「ソロ」への固執は「山登りは夢なんだ。それこそ世界中に夢がある。だから自分は一生夢を見続けられる」であり「其の先に本当の自分が見えるから」である。そうした高みを目指す人間の生き方そのものに他ならない。

異次元の世界と言えばそれまでのこと。私はこれほどまでに打ち込めるものを持っている山野井の生き方に、一種の羨望と敬意を覚える。(文中、「ソロ」「垂直の記憶」「凍」より、本意を一部引用した)。

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2006年3月 8日 (水)

続、木蓮通り

啓蟄を過ぎた途端に、木蓮通り (木蓮通りの説明はこちら) の白木蓮が一挙に開花した。

  年々歳々花相似 歳々年々人不同

20060308-1

 白木蓮(はくれん)に純白といふ翳りあり 能村登四郎
 木蓮のため無傷なる空となる       細見 綾子
 木蓮のこぞる築地に行きあたる      水原秋桜子
 木蓮の風のなげきはただ高く       中村草田男
 はくれんに引き寄せられし夜空あり    江口 千樹

20060308-2

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