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2006年2月28日 (火)

龍の玉

今年も龍の玉(写真上)が我が家の玄関脇の茂み(写真下)の中に、ひっそりと生まれていた。其の色の美しさ、愛らしさ、輝き等は何時見ても素晴らしい。茂みをかき分けて見ると其の奥に、静まり返っている姿には奥床しさすら感じる。

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  日を知らず実のりて碧し龍の玉  高橋淡路女
  龍の玉ころがり一碧書庫の径   山口青邨
  日当りの土うきうきと龍の玉    山田みづえ

060228entrance

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2006年2月23日 (木)

宴の跡

2004年に開催された浜名湖花博の跡が公園として一般公開されている。昨日、傍まで行く用があったので序に寄ってみた。今は当然入場無料となっている。 hanahaku_tower

花博中あれほど雑踏していた会場も、今は閑散として今日は数十人の人々が家族で来て春の陽を浴びながら、楽しんでいた。

大部分のパビリオンや花壇も撤去されているが、それでも一部のパビリオンはそのままの姿で残されているし、散策路の脇には綺麗な花壇が今も訪れる人々の目を楽しませている。

会期中に何度も上ろうとしたが、あまりの人の、とぐろ巻に辟易して上らず終いのガーデンパーク展望塔(会期中はきらめきタワーと呼ばれていた)にも上って見た。高さ50㍍の展望台まであっという間にエレベーターで行く事が出来る。料金は300円。

眼下に浜名湖が横たわり、今切口の浜名湖大橋の彼方には遠州灘が手にとるようだ。会場と対岸を結ぶ村櫛大橋は蛇が横たわっているように見える(写真)。

murakusi_bridge

残されたパビリオンの内、眼下にタイと中国のものが見える(写真)。

塔を降りて歩いてみる。タイの建物と庭園(写真の赤い屋根の部分)は古き良き時代の農村風景を再現したものと言われ、タイ郊外の水辺の農村風景をイメージした庭園。チーク材を使った住居、アユタヤ石の舗装はそのまま残っている。手前に見える運河(会期中はいろどり運河と呼んでいた)は話に聞く、タイのチャオプラヤー川を連想させる。往時のチャオプラヤーチャクリ王朝や河川交通に依るマーケットの発達と衰退の歴史を想像させてくれる。 

中国の庭園(その右の白い壁のように見える所)は、浙江山水の美しさ、趣を見せてくれる。浙江省の風景や景勝地を表現、中国伝統の山水園林の形式を用いて、浙江山水の美しさや建物の雄大さを演出したものと言う。

hanahaku-thailand

モネの「花の美術館」跡へは又の機会とすることにした。帰る途中の花壇には色とりどりの花が咲いている。中でも菜の花(写真)が身近に感じられた。

hanahaku_flower  

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2006年2月21日 (火)

吊し雛

3月ともなれば雛祭り。有名な稲取を始め、吊し雛の展示が各地で盛んに行われている。我が家でも、山ノ神が合間合間を縫っての1年半の労作を座敷に飾っている。

非常に華やかな感じだが、その由来を知ると思わず胸が熱くなる。吊してある飾りの一つ一つは、子の成長を願う心を、形に表したものと言う。

turusi-hina3

由来の一端を、既発表のブログ記事から引用させて頂く。

 ※つるし飾りの由来と言い伝え

以前のパンフレットでは伊豆稲取に江戸時代に、九州の柳川地区から伝わったとされていますが、過去の文献等ではのつるしの飾り方等の相違多々あり、雛のつるし飾りの風習は、この稲取地区独特の雛飾りの様です。

過去の文献では山形の酒田地区の物は当時稲取が海上輸送の中継地になっていた為、柳川地区→稲取地区→酒田地区と伝わっていったと考えられていました。また江戸時代後期~明治初頭に稲取村より江戸に行儀見習を習得にいった娘さんが稲取に伝えたという説もあり最近の文献や当時の様子を記した書物などを考慮すると、どうやら江戸時代後期に江戸での線が濃厚なのかも知れません。

上記の様に様々な言い伝えありますが、この地区の古老のお話によると、江戸時代においては雛飾りを購入できるような裕福な家庭はまれで、せめて雛飾りの代わりに、愛する子供や孫の為に手作りの雛飾りで初節句を祝おうという、切ない親心から生まれたのが稲取の雛のつるし飾りまつりの発祥の由来と伝えられています

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2006年2月17日 (金)

木蓮通り

我が家から程近い所に、通称「木蓮通り」と呼ばれる通りがある。南から北へ約4㎞に渉る直線道路があり、更に其の先は北東に向きを変えて4㎞、計8㎞に渉って道の両側に、白木蓮の並木がある。毎年決まって学校の卒業時期になると見事な花をつける。

この通りは、嘗ては軽便鉄道(ラッキョウと呼ばれて親しまれていた)の軌道のあった所だが、廃線後は道路として使われている。

今年は例年より寒い日が続いたので、花も遅れるのではないかと思って、3日ばかり前に行って見たら、確りした蕾をつけていた(写真)。

mokuren

私はこの花が咲く時、きっと思い出す詩がある。

劉希夷が、女性の一生を詠った詩の一節と言われる、「年々歳々花相似 歳々年々人不同 (年々歳々花あい似たり 歳々年々人同じからず)」である。

そしてしみじみと、現在只今ここにいる自分を考える。

真っ白な花を見せてくれる時は直ぐそこにある。そんな思いに耽って見上げた空に、偶々自衛隊機のAWACS(エイワックス)が飛んでいた。

AWACS

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2006年2月13日 (月)

ラッキョウの道

Y社に入社した当時、先輩と一緒に毎朝会社まで歩いて通った道がある。その道の途中に軽便鉄道ラッキョウと呼ばれていた)のトンネルがあった。l-railway

そのトンネルは通勤時、少し急ぐ時にはショートカット用として良く使った。勿論ラッキョウの通る時間を知っていての事。何処まで信用して良いか判らないが、偶々遠くからやってくるラッキョウを見つけても、通勤・通学の時間帯なら、当時のラッキョウでは走れば追いつかれることはなかったと言う。

トンネル近辺は勾配が割合きつく、通学時間帯は、満員の生徒でラッキョウの力では精一杯。時々車輪が空転すると、車掌が降りて、線路に砂を撒いて居た事もある。そんな状態だから走っても追いつかれなかったのだろう。全線のうち、そんな箇所が2ヶ所あった。ラッキョウは甲高い汽笛をあげて走っていた。愛嬌があって利用者からは結構有り難がられた存在だった。tunnnel

マイカー時代になって、それまでの蒸気機関車を廃止して電車になったが、軌道はそのままの軽便電車になった。速度も増して昔のようなことはなくなったが、矢張り時代の波に押されて廃線になってしまった。私は廃線直前に思い出の為に始点から終点まで乗ってみた。三方原台地を走って行くときに、富士山がくっきり見えたことが印象に残っている。その三方原に将来住むことになろうとは、その時は夢にも思っていなかった。やはり因縁というものを感じる。

曲がりなりにもれっきとした電車なので、今残っていたら、常時渋滞の道でいらいらする状態を、横目に正確な時間をキープして走っていただろう。恐らく利用者も大幅に増えたと思う。採算性も良くなったはずだ。

その思い出のトンネルを数十年ぶりに歩いてみた。昔の面影を僅かに残して、綺麗に舗装された遊歩道になっている。上の2枚のモノクロ写真はトンネル入口の壁に、蒸気機関車当時のラッキョウの写真が貼ってあったものを撮ったものである。

犀ヶ崖という古戦場址(犀ヶ崖はこちら)から、浜松城の近くにある、Kホテルまでの姫街道を往復歩いてみた。往路はトンネルを通らずに町の中を歩いた。1.6㎞位あって、ゆっくり歩いて25分位。復路(それが今日の目的)は、懐かしのトンネルの中を歩いた。1.8㎞位で、景を楽しみながらゆっくり歩いても30分あれば充分。

トンネル内を通る道には、情緒があり素晴らしいし、何より安全だ。全部煉瓦模様の舗装路で車は勿論通れない。自転車に乗った人が時たま通るが、散歩している人が圧倒的に多い。写真は其のトンネル付近の模様で、往時を懐古しながら歩いた。tunnel

トンネルを出ても、樹木に覆われた素晴らしい道が、犀ヶ崖の直近まで続く。哲学の道といっても良いくらいの雰囲気のある遊歩道だ。気持ちの良い道だ。この道をあのラッキョウが通っていたのが夢のようだ。

tunnel_2

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2006年2月11日 (土)

   白梅のあと紅梅の深空あり   飯田龍太
   紅梅や枝枝は空奪ひあひ    鷹羽狩行
   紅梅を濃しと思へりわが息も   林  翔 

菅原道真でなくとも、梅を見ると春の香を聞く。狭庭の一隅で。

koubai

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2006年2月10日 (金)

再度、姫街道(本坂峠)

姫街道こちら)には、引佐峠こちら)と本坂峠の難所がある。その本坂峠には椿の原生林がある。説明文に依ると、「この本坂峠沿い百数十㍍にわたって椿の原生林が見られる。樹齢200年以上のものもあり1~3月にかけて美しい花が見られ、椿の花の隧道を踏みしめながら通行した昔が偲ばれる。」と、記されている。下の写真はその原生林の風景の一部で、石畳を挟んで密生しているが、2月8日に訪れた時には全く花がなく、2,3輪石畳の上に落ちているだけだった。

honzakapass_1

地元、三ケ日町関係者から2月10日に頂いたお知らせに依ると、「今年は前年の11月から低降水量、低温で開花が遅れているようです。里の椿が満開の頃に原生林の椿は5分位になりますので、まだまだ暫く先になりそうです。」との事である。御覧(下の写真)のように一部、古木が目に付く。

honzakapass_3

石畳が尽きる辺りから道は急に狭くなり(下の写真)、険しくなる。往時此処を通った人たちはどんな思いで通ったのだろうか。訪れた日は下界は晴れていたが、峠は風花が舞っていた。

honzaka_pass4

(参考記事はこちら)

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2006年2月 7日 (火)

勇気こそ

  勇気こそ地の塩なれや梅真白  中村草田男

俳人協会・俳句文学館発行の俳句カレンダー2月の巻頭句である。この句に就いては、奈良比佐子氏の鑑賞文がある。

白の暗示   
  『地の塩』とはマタイ伝中に見られる言葉で、塩がすぐれた特性をもつところから、転じて広く社会の腐敗を防ぐのに役立つ者をたとえている語である。
 この句は、昭和十九年の作品で学徒出陣の教え子への餞の句である。
 戦局に暗雲の漂いはじめた中での出陣であり、前途は明るいはずもない。だからとて生きて帰れとは口にできないご時世である。
 蛮勇を奮って自ら死を望むようなことをせず、真の勇気で踏み止まることこそ大切である。そのことを、冬の寒さをじっと耐えて早春に花開く梅の、その潔い白さをもって暗示したと考えられる。
 人口に膾炙された聖書からの語とはいえ、私たちの心にこの句の意がすんなりと入るのは、草田男が充分にこの語を理解して使ったからに他ならない。
 時は流れて今日この句を読み味わう時、今もまた世の風潮に流されない勇気が大切だという事を思い知らされる。」と、ある。

与謝野晶子は「…君死にたまふことなかれ…」と、旅順口包囲軍の中にある弟を嘆いて、直接的に詠った勇気があり又、その時代の雰囲気を感じるが、掲句の時代はそれを口にすることさへ出来ない時代だったことが、ひしひしと伝わってくる。この句の本意を知ると、「真の勇気」と言うものの困難さを感じるのは、城山三郎著「一歩の距離」にみられる通りである。

山口誓子の 「海に出て木枯帰るところなし」 も、教え子の学徒出陣時に詠ったものと聞く。山口青邨の 「子供等は野を焼く卿等何を焼く」と、教え子の卒業を祝い励ました明るい句とは違って、当然のことながら重苦しい切なさを感じる。俳句は矢張り具体的なものを通して心の様相を詠ったものに特に共感を覚える。
 

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2006年2月 3日 (金)

パピルス

知り合いの歯科医の所に、気になる小さな額があるので聞いてみたら矢張りパピルスだという。患者が海外旅行の土産にと言って持ってきてくれたものと言う。実は私も3年近く前に、世界一周のクルージングから戻った友人からエジプトの土産にとパピルスを頂いた。今も私の部屋に大切に架かっている(写真)。パピルスに就いてはWikipediaによると次のように記されている。

パピルス(Papyrus)は、カヤツリグサ科の植物の名。または、この植物の地上茎の内部組織()から作られ、古代エジプトで使用された文字筆記のための媒体をも指す。パピルス紙と呼ばれる場合があるが,繊維が絡み合っていないため正確には紙ではない。ただし、これは、中国で発明された「」を基準に、紙の定義が後に定められたからで、英語などの言語で紙を意味する paper や、フランス語の papier は、papyrus に由来する。」

papyrus

友人が、そのクルージングに出かける前日にイラク戦争が勃発した。スエズ運河も通れるか危惧するほどの、異常な雰囲気と緊迫感の中での出航だった。そんな事も絡みクルージング中には色々のことが在った様で、船上からメールで旅先での状況や写真が刻々送られてきた。今も其の時の情景が浮かぶようだ。

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2006年2月 1日 (水)

氷燈籠

松本と上田の中間に鹿教湯(かけゆ)という温泉町がある。

毎年1月中旬から2月の節分前後まで、氷燈籠(写真上)と呼ぶ明りが、薬師堂や文殊堂(写真下)へ上る石段の各段の両端に点されるだけでなく、両堂を繋ぐ径やそこへ到る径にも灯が入る。氷燈籠は円筒形の氷の中をくり抜いて、夕方になると中に灯を入れる。堂に到る径は、深い谷に掛けられた屋根付きの橋を渡るがその橋の上にも点される。

koori-tourou

monjyudou

tourou-yakei 幻想的な光の芸術とも呼べる光景(写真左はその一部)は、訪れる人に深い感動を与え、多くの俳人も訪れ芭蕉句碑も建っている。

鹿教湯は、傷ついた鹿が湯に入ったら傷が治ってしまったという伝説めいた話から付けられた名前と聞く。

湯量が豊富で透き通っており、湯から出ると体全体がほかほかと暖かくなる。四季を通じてこの温泉を訪れる人は多いが特に、冬のこの季節には、温泉と氷燈籠の景を楽しみに来る人も多い。しかし一般的な温泉町の賑わいとは違って、この温泉をよく知っている客筋の多いのも特徴の一つだろう。それだけに、しっとりとした落着いた雰囲気を感じさせてくれる。

又付近には寺社や簡保の保養所もあり、無言館や別所温泉・信州の鎌倉と呼ばれる塩田平も近い。

私達は、老夫婦が経営する鄙びた旅館によく出かける。

節分には文殊堂で豆撒が行われるが、この堂では昔から一貫して「福は内、鬼も内」と言って豆を撒く。

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