母から頂いた一枚の額
我が家の座敷に一枚の額が掛かっている。母が書道家の旭山(きょくざん)氏に依頼して書いて頂いた、長野県歌「信濃の國」の歌詞である(写真)。長野県を離れて異郷に居ても、常に故郷を忘れず、真摯に矜持を以って暮らすようにとの想いを籠めて贈ってくれたものと思う。
この長野県歌には歴史的経緯があって、この歌が長野県の政争を救ったということもあり、長野県人は誰でも知っているし、集まる機会があると、この歌から始まるのが常である。
この歌の歴史的経緯に就いて、1998年8月の小林美津代氏の一文をご紹介する。
「信濃の国」は、1899(明治32年)漢文学者浅井洌により作詞され、1900年(明治33年)に北村季晴により作曲され、師範学校(現信州大学教育学部)の運動会のときに舞踏遊戯用の曲として発表された。その後、師範学校の卒業生により全県の小学校にひろめられ、校歌のように歌われた。また、これが名曲であったため、広く一般に普及し、1968年(昭和43年)県歌と定められた。
明治、大正、昭和にわたって、長野県における最大の政治問題は移庁、分県問題であった。北の長野県と南の筑摩県の二つの県が統合された長野県は,南北での地域の対立がことあるごとに、繰り返され、そのつど移庁、分県の論議が繰り返されてきた。
その中で、本歌の持つ役割は大きく地域住民の融和、統合の気分を盛り上げるのに大きな役割を果たした。1961年(昭和36年)の移庁問題のときも、「信濃の国」の大合唱が議場におこり移庁運動の幕がおろされるという、他県人には想像のつかないものを持っている 。
(歌詞にある、当時の景と現在の景とでは、時代の推移による一部の相違点もあるが、本意を考えると問題にはならない。)
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コメント
正月巻頭のご挨拶が一日にあるかとパソコン開いたのですが、まめなアルプスさんも人並みに休みとおもったら、5,6,8,10日と量産ですね。そのバイタリテイーに脱帽。
ワヤン人形の写真きれいですね、ピントもあつて、おかげで「夜も昼のごとく輝く」の背表紙もみれました。保殿もよろこんでいるとおもいます。
「信濃の歌」ふるさとのある人はいいですね、東京でうまれ、戦前は牛込、浅草、滝野川、移り、戦後も荻窪、清瀬で過ごし考えてみると浜松が一番ながくなりました。
浜松も故郷というより、聖隷という職住一緒の特殊集団生活、あるいはこれが故郷。
その故郷も遠き眺めの感ですが。
での、
投稿: 尚童 | 2006年1月10日 (火) 17時18分
大方の本は、処分するか物置へ突っ込んでしまった中で、あれらの本は手の届く所に何時も置いてあります。「夜もひるのように輝く」も亦感動の書でしたから。
尚童さんも随分と転居されているので、一般的な故郷という概念からすると、故郷は特定し難いかもしれませんが、矢張り尚童さんが最も心に残る所がおありでしょう。
尚童さんの過去の経歴を知らず、聖隷グループに残された足跡の大きい事だけを知っている者にとっては、浜松の尚童さんのイメージしか有りません。
投稿: Alps | 2006年1月10日 (火) 20時22分
今度北村季晴作曲の宝塚の少女歌劇「ドンブラコ」がCDで出るみたいです。予約か始まったようです。
投稿: trefoglinefan | 2009年3月26日 (木) 22時53分