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2006年1月29日 (日)

続、姫街道(引佐峠)

公営国民宿舎「奥浜名湖」から西進すると程なく、浜名湖畔から上ってくる姫街道と出会う。石畳や水切りも往時の姿そのままだ。

昔は、取締りの厳しい新居の関所などを避け、多くの人が通った東海道の脇街道だった。見遥かす浜名湖等の景勝地も、昔は万感の想いを抱いて眺めた景だったかもしれない (浜名湖舘山寺とその周辺は、こちら)。

街道を上ると間もなく海抜200㍍の引佐峠にかかる。姫街道では本坂峠に次ぐ難所で、最近新しい道標が建てられている(写真)。峠には昔、茶屋場もあったらしい。

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鬱蒼と茂った木々の間の狭い石畳の街道を歩くと、暫くは往時に想いを馳せることが出来る。

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2006年1月17日 (火)

姫街道

奥浜名湖北側の山上に公営国民宿舎「奥浜名湖」がある。ここから見下ろすと浜名湖へ注ぐ都田川が足下に流れ、更に目を凝らすと、浜名湖が外海とつながる今切口と、遠州灘を遠望出来る。

hime-kaidou 国民宿舎から道を下ると、通称「姫街道」に出る。東海道の見付又は浜松から気賀、三ケ日の浜名湖北岸を通り、三河の御油までの東海道の脇街道で、途中には今も残る松並木が見事である。        

只、車の排気ガスなどで年々弱ってきているのが現状で、松並木保存の為に尽力している人たちもいる。

上の写真は最近建てられた「姫街道」の道標。下の写真は松並木。

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国民宿舎からこの姫街道に出るとその真近に「獄門畷」の跡がある。気をつけて見ないと見落としてしまうほどで、道の南側に石碑と由緒書が建てられている。

「永禄3年(1560)桶狭間の戦後、徳川家康の遠州侵攻を防ごうと、気賀の人々は、領主今川氏の為に堀川城を造り、最後まで戦った。堀川城址は此処から南へ600㍍程にある。

永禄 12年(1569)3月27日、堀川城に2000人の男女が立てこもり、3000人の家康軍に攻められて落城した。大久保彦左衛門の記録に『男女ともになで切りにした』とある。其の後捕らえられた700人も,この付近で処刑され、この小川に沿った土手にさらしたので『ごくもんなわて』と言われるようになった」と、書かれた由緒書と並んで、「堀川城将士最期之地」と書かれた石碑(写真)が小川の傍に建っている。誰が供えるのかお花の絶えたことがない。

   獄門の跡の畷の草青む   (N) 

   落城史今に伝へて春寒し (H)

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下の写真は、都田川が左方から右方に流れ浜名湖に注ぐ所で、川の前方の山の形が「寝釈迦」に似ているところから、寝釈迦山とも呼ばれている。舘山寺はその足の部分に当たる.。冬の都田川には鴨が群れている。(舘山寺はこちら

   うららかや湖のむかうに海みえて (A)

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2006年1月14日 (土)

浜松も大都市並み

大都市では、自分の家の裏に住んでいる人の名前も知らぬ事があると昔、東京の高円寺に住んでいた叔父から聞いた事がある。

所が今、浜松でも同じ現象が出掛かっているのが気になる。特に新興住宅地に其の現象が著しいと聞く。少なくとも最低限、隣保くらいはコミュニケーションを良くしないと、生活環境に潤いがなくなってしまう。

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浜松 (写真は浜松中心街の一部:広報浜松より) も、合併で81万人を越す都市になった。政令指定都市に移行するのも時間の問題だが、大きい事が良いことではない。心の問題も考えて行くことが大切だ。旧町村に今も残っている伝統文化の伝承などもその一つだろう。施政に心配りが無いと乾いた都市になる。

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2006年1月10日 (火)

母から頂いた一枚の額

我が家の座敷に一枚の額が掛かっている。母が書道家の旭山(きょくざん)氏に依頼して書いて頂いた、長野県歌「信濃の國」の歌詞である(写真)。長野県を離れて異郷に居ても、常に故郷を忘れず、真摯に矜持を以って暮らすようにとの想いを籠めて贈ってくれたものと思う。

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この長野県歌には歴史的経緯があって、この歌が長野県の政争を救ったということもあり、長野県人は誰でも知っているし、集まる機会があると、この歌から始まるのが常である。

この歌の歴史的経緯に就いて、1998年8月の小林美津代氏の一文をご紹介する。

「信濃の国」は、1899(明治32年)漢文学者浅井洌により作詞され、1900年(明治33年)に北村季晴により作曲され、師範学校(現信州大学教育学部)の運動会のときに舞踏遊戯用の曲として発表された。その後、師範学校の卒業生により全県の小学校にひろめられ、校歌のように歌われた。また、これが名曲であったため、広く一般に普及し、1968年(昭和43年)県歌と定められた。

明治、大正、昭和にわたって、長野県における最大の政治問題は移庁、分県問題であった。北の長野県と南の筑摩県の二つの県が統合された長野県は,南北での地域の対立がことあるごとに、繰り返され、そのつど移庁、分県の論議が繰り返されてきた。

その中で、本歌の持つ役割は大きく地域住民の融和、統合の気分を盛り上げるのに大きな役割を果たした。1961年(昭和36年)の移庁問題のときも、「信濃の国」の大合唱が議場におこり移庁運動の幕がおろされるという、他県人には想像のつかないものを持っている 。

(歌詞にある、当時の景と現在の景とでは、時代の推移による一部の相違点もあるが、本意を考えると問題にはならない。)

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2006年1月 8日 (日)

サトウキビ列車

1月8日の読売新聞の特集「駅」に、ハワイ・マウイ島のラハイナ駅が紹介されていた。三角屋根の可愛いい小さな駅舎が印象的だった。私どもは友人と過去3回、この地を訪れている。写真は懐かしい、サトウキビ列車が白煙を上げて木組みの橋を渡っている所(新聞紙上の写真)と、私たちが2002年に乗車した時の乗車記念証。   sugar_cane_train

sugar_cane_train2 「かつてサトウキビは、マウイ島の主要産業だった。キビや人を運ぶ為に農園を小さな機関車が走っていた。それを1969年に観光用に再現したのが『サトウキビ列車』だ。雄大な山々、青い海が車窓に広がる。……時折鳴る汽笛は、線路から1Kmほど離れたラハイナ浄土院にも届く。日系人の集まる浄土宗の寺だ。……浄土院の住職に当たる開教使、原源照さん(69)が『ホレホレ節』を口ずさんだ。1世たちは炎天下に12時間立ちづめで、キビの葉を手作業でかきおとした。其の時の歌だ。 ”ゆこかメリケン帰ろか日本 ここが思案のハワイ島”。 浄土宗から派遣された原さんは、3年で帰国するはずだった。が、預かった寺が火事になる。責任を感じて再建に奔走。何時しか42年が過ぎていた。『帰ろか日本』と思いつつ。……列車は9.5Kmを往復し再びラハイナ駅へ……かつて涙を乗せた列車に今、笑顔が乗り込んで行く。」と、特集「駅」には紹介されていた。 

lahaina_temple1 写真左は、ラハイナ浄土院内の三重の塔と露座の大仏。

原源照氏ご夫妻はすっかり現地に馴染み、苦労の末に現地に骨を埋めた邦人の墓を守り、日本の盆に当たる時は、盆供養と流灯会を催している。

異国の夕日を見つめていると、現地に移民して苦労した上に、異国の地で果てていった人たちの事を思い、胸が熱くなる。

そんな夕日を、lahaina_temple_2 原さんご夫妻は1万回以上も見つめつつ、望郷の念に駆られたことが幾度もあった事であろう。2004年にお訪ねした時もお元気で案内して下さった。これからもお元気でご活躍される事を祈っている。

余談だが原さんは、長野市から現地に赴任された。私の友人の奥さんが善光寺の、お上人様を学友に持っているご縁から2004年に訪問した時に、お上人様御染筆の色紙を差し上げた所、大変喜ばれた。

サトウキビ列車は、可愛いい姿で、今日も過去の歴史を乗せて、カアナパリ と ラハイナ間を走っている。白煙を吐き汽笛を鳴らしながら。

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2006年1月 6日 (金)

ワヤン人形

旧歳晩、一冊の歌集を頂いた。インドネシア最高勲章を受章し、戦後のユースホステル運動、ウォーキングを通じた心身の健康と国際交流を訴えて、地球を2周半歩いた偉大な夫を支え、自らは家を守り農事に励む傍ら優れた歌人・小説家・エッセイストとして数々の賞に輝いた人の歌集である。その巻末に最近の世相を「ものが心を食べている姿に見えて仕方がない」とあった。

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インドネシア と言えば、私も1989年ビジネス出張で訪れたことがあるが、その時にはこのご夫妻の話を知らなかった。改めてその足跡を思うと、出張時に買って今も壁に飾ってあるワヤン人形を彫りこんだ壁掛けと、同じくブック・エンドを懐かしく改めて見直した。 

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厚さ2cmの紫檀の板に、銅板を曲げて作った人形を彫りこんだ精巧な作品である。ブック・エンドに彫りこまれた人力車の名前を現地で何と呼んでいたかは忘れた。

book_end_3 

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2006年1月 5日 (木)

「自分の人生だもの」

10年ほど前、ある詩から勇気を貰った。

「自分の人生だもの」

一所懸命走ってきた 迷いながらも臆さずに 不器用ながらも真剣に 嬉しいときも辛い時も ひたすら走ってきた 自分の人生だもの

時には悩みながら 時には一人ぼっちで 時には涙をこらえ 時には静かに燃えて 今も走り続ける 自分の人生だもの

なくした過去を思うより 明るい明日を見つめよう つまづいたって構わない 転んだって構わない ベストを尽くして走って行こう 自分の人生だもの

   励ましは一言で足る初電話  Alps 

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