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2005年12月29日 (木)

Music siren

26日に街に出た時、懐かしい音を聞いた。ミュージック・サイレンだ。ミュージック・サイレンと言っても聞き慣れない人も多いだろう。

戦時中、警戒警報や空襲警報を報せるのに、サイレンが使われたので、サイレンの音には不気味な感じを持つ人が多かった。しかし戦後も、大きな工場等の始業や就業時を報せるのに盛んに用いられたものだ。そのサイレンの圧倒的な音のエネルギーを生かして、音楽性のあるものに変えられないかと、Y社の元社長(後に会長)が研究者に命じて生まれたのがミュージック・サイレンで、サイレンの音で音階を作り音楽を奏でるように開発された。Y社の屋上には1951年から今もそのサイレンが、始業、就業時は勿論、休憩の始め終わり等を含めて日に10回は美しい音楽を街に流し、市民に親しまれている。

それを企業等のPR用に使えないかと、問い合わせが各地から寄せられ、北は北海道の札幌から南は九州の宮崎まで、主としてデパートや市役所等に設置された。今も使われているか否かは知らない。只PR効果を勘案して、一地区に一台と限定して設置された。

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写真はY社の屋上で1953年(1951年のものを全面改良して作られたサイレン)から1989年まで36年間、朝も昼も夕方も音楽を奏でていたサイレンで私にとっては忘れられないサイレンだ。

music_siren_3 左の写真はそのサイレンで鳴らす曲を刻んだミュージック・ドラムである。この設計のサイレンの難点は短い音符の同一音が続く曲、例えばシューベルト作曲の「菩提樹」のように「ソソミミミミド …」といった曲は、耳の良い人には歯切れが悪く感じる。(滝廉太郎作曲の「荒城の月」のように「ミミラシドシラ…」とゆったりした同一音が続く場合はあまり問題は無い。)

それを改良して1989年に、コンパクトに且つ「菩提樹」のような曲にも歯切れ良く対応出来るサイレンを設計し、36年ぶりに更新された。勿論ソフトも変った。下の2枚の写真がそれで上は、サイレンを収めている,ボックス(旧サイレンも一緒に写っている)。下はボックス内のサイレンのメカの一部。

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私はこのミュージック・サイレンの曲を聴く度に青春時代を懐かしく思い出す。 

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2005年12月23日 (金)

再び「無言館」

戦没画学生慰霊美術館「無言館」が、「人々の心に感動を与え続けている」事を評価され、館主である窪島誠一郎氏と、同じく窪島氏と協力して開館に努力した洋画家 野見山暁治氏(東京芸大名誉教授)が、第53回菊池寛賞を受賞した。

11月8日の読売新聞「窪島誠一郎さん」によれば、無言館の開設は、大正・昭和の夭折画家の作品を集めた「信濃デッサン館」を26年前に開設した窪島氏が、戦死した美術学校の友人たちへ深い思いを寄せる野見山氏と出会ったのがきっかけという。以来2人で協力して各地の遺族を回った。「彼(窪島氏)はきちっと頭を下げ、信じてもらえるまで何度も訪ねた」(野見山氏)。

受賞は「僅か10年の活動に、花束を贈られるようで、ある種の罪深さも感じる。…まだ道半ば。傷んだ作品の修復もしたいし、飾りきれない作品を展示するため分館も建てたい。”抜き差しならない使命感”からだ」と、窪島氏の弁が記されている。mugonkan_2

信濃デッサン館近傍より望む無言館(上)

12月18日の日経新聞の文化欄には、野見山氏が凡そ次のような事を書いている。菊池寛賞受賞の報を受けて、「キクチカン賞、初耳だが、上田市郊外に造った無言館の功績によるものと説明された。…かつてNHKの企画でぼくが戦没画学生の家を尋ね歩き、それを記録した”祈りの画集”を、窪島氏はながいこと温めていたらしい。ある日ひょっこりとぼくの前に現れて、戦没者の遺作を集めたいので協力していただきたいと、渋るぼくに食い下がってきた。…受賞式が終ってパーティー会場に移ると、遺族の方たちが晴れがましい顔をして、大勢待っている。…みんな喜んでいるんだ。…無言館、なんと言ったらいいか、これはクチキカン賞がふさわしい。」と、ある。

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上の写真は、無言館入口を飾る、石で造られたパレット状の「記憶のパレット」と呼ぶ慰霊碑とも言うべきもので、それには「私たちの芸術と 私たちの銃の前にあった すべての芸術のために」と刻まれている。そしてカンバスに向かう画学生たちの姿が描かれ、戦没画学生の氏名がその下に刻み込まれている。

ご子息と共に「無言館」を訪れた水原 春郎氏は、
       その父の一言激し俄冷 ( 春郎)
       君も我も大正生れ曼珠沙華 (同上)
       身に入むや君ら残せし筆のあと (同上)
       自画像の一人一人に秋思濃き (同上)
       未完の画心に遺し天の川  (同上)     

又、「無言館展」を見た長谷川 史郊氏は、
       ハンカチをにぎりしめ立つ遺る絵に ( 史郊)
       描きたる命の証し雁のころ (同上)
       「還りたら巴里に行きたし」萩の風 (同上)

*以前の記事(無言館)こちら
*以前の記事(続・無言館)こちら

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2005年12月19日 (月)

池宮正信「ラグタイムの夕べ」

楽しみの一つは、毎年、年が押し詰まった頃に聴く、池宮正信「ラグタイムの夕べ」である。今年も先日そのコンサートがあった。

ラグタイムは、19世紀の後半、リンカーン大統領の奴隷開放宣言で自由になった黒人たちはその喜びを音楽に表現し、これがラグタイムの始まりとなった。そして段々盛んになってきたマーチ(白人の音楽)のリズムとそのヨーロッパの音楽の和音や構造を土台に、彼等のアフリカ的シンコペーションの入ったメロディーが一体となり1890年代にラグタイムが完成した。彼等の作り出した魔力のように美しいシンコペーションのリズムは白人たちを魅了し、瞬く間に全米に広がった。19世紀後半から20世紀初頭にかけての生き生きとした時代のポジティブなエネルギーと笑い声の中から生まれた音楽がラグタイムで、ジャズが流行する前に出来上がっていたアメリカのオリジナルポピュラー音楽である。

今年のコンサートは、予め軽食を摂った後、そのテーブルで聴くという、くだけた雰囲気の中で行われ例年の通り楽しいコンサートになった。ライブな会場でヤマハ・ピアノが美しい音を奏でていた。

第一部は通常のクラッシク・ピアノ曲であるが、第二部がラグタイムとなる。その中でも圧巻はなんと言っても、スコット・ジョブリンのラグで聴衆も時には手拍子を入れる等、演奏者と聴衆が一体となる楽しいコンサートになる。当日のジョブリンの曲目は、オリジナルラグ(1894年頃)、ジ・エンタテイナー(1902)、ラグタイム ダンス(1906)、パイナップル ラグ(1905)、ベテーナ(ラグタイム・ワルツ1905)、リアル スロー ドラッグ(「オペラ ツリモニシア」より)、マグネチック ラグ(1914)等で本当に楽しかった。

おまけが付いた。同じ゙テーブルに姉妹と思われる美人が居た。声をかけてみたら、矢張り姉妹で、姉のほうは、テレビ埼玉の人気アシスタント、妹はチームジャビッツの主要メンバーとして活躍中との事で、このコンサートを聴きたくて、態々東京から出てきたと言う。楽しい曲を美人と一緒に聴くことが出来て一層楽しいコンサートになった。

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2005年12月17日 (土)

龍潭寺と井伊谷宮

浜松市近郊の旧引佐郡引佐町(現、浜松市引佐町井伊谷)に、南朝縁の宗良親王と徳川時代の井伊家に関する歴史を秘めた龍潭寺と井伊谷宮が隣接している。

龍潭寺は、天平7年(733)行基菩薩により開創され、現在は臨済宗妙心寺派の古刹で本尊は虚空蔵菩薩である。宗良親王・井伊家の菩提寺としても知られ、池泉観賞式の庭園は、小堀遠州作と伝えられる。堂塔六棟はいずれも江戸時代の建造物として県の文化財に指定されており、本堂内には丈六の釈迦如来像も仮安置されている。鴬張りの廊下と共に左甚五郎作といわれる龍の彫刻や龍潭寺屏風等の寺宝は本堂内に保存され、本堂の左手に朱塗りの楼閣造りの開山堂があり、塔上に井伊家の家紋がある。御霊屋には幕末の大老井伊直弼の位牌が安置されている。

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龍潭寺本堂

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龍潭寺、開山堂

龍潭寺に隣接して旧官幣中社井伊谷宮がある。後醍醐天皇の第四皇子宗良親王を祭神として明治5年に創建された。学問・開運の神として尊崇されている。大鳥居をくぐると左手に絵馬史料館がある。妻入り本殿の横には、ご神木と史料館があり、周囲には宗良親王歌碑や水原秋桜子の句碑、慈母観音石が建っている。本殿背後に宮内庁所管の宗良親王ご陵墓が京に向かってたてられており、普段は石の柵と扉に閉ざされている。

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偶々訪れた日は折りよく、ご陵墓清掃係りの女性に会い、許可を得て宗良親王のご陵墓真近まで進んで拝観が出来た。全くの僥倖である。

上の写真は、ご陵墓を取り巻く環境で、写真手前鳥居のある石の柵に到るまでに参道がありその入口に、もう一つの石の柵があり鉄の扉で仕切られている。従って入り口から三っの扉を経て、ご陵墓に達する事が出来る。

下の写真は、その一番奥に鎮もる宗良親王のご陵墓である。全て宮内庁所管となっている。

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2005年12月11日 (日)

方廣寺

浜松市近郊の旧引佐郡引佐町(現、浜松市引佐町)に、臨済宗大本山方廣寺がある。歴史の重みを感じさせる寺で常に参詣人が絶えない。

臨済宗大本山方廣寺は、建徳2年(1372)後醍醐天皇の皇子無文元選禅師によって開創された禅寺で、遠州地方中心に末寺170寺を持つ臨済宗方廣寺派の拠点である。俗に黒門と呼ばれる総門をくぐると、前方に朱塗りの鮮やかな二層の楼門が見える。正面の「護國」と揮毫された大扁額は高松宮殿下の御染筆によるもの。この楼門が方廣寺の正式な山門にあたる。

山門を過ぎると道は二手に分かれ、右は通称「らかん坂」で本堂・半僧坊へ、左は通称「哲学の道」と呼ばれ、半僧坊・七尊堂・三重の塔方面へ連絡する。本堂の近くに、半僧坊大権現が鎮守として祀られている。

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楼門(山門)~「護國」の大扁額は高松宮殿下の御染筆

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本堂~正面の「深奥山」の大扁額は山岡鉄舟の筆

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朱も鮮やかな三重の塔

    らかん坂

 参道の両側には奇岩が露呈し、その上に五百羅漢の石像が此処かしこに安置されている。羅漢の表情は豊かで見る人の心を和ませてくれる。

    哲学の道(半僧坊表参道)

 道に沿って小流れがあり、その傍らに椎河龍王の祠がある。渓を跨いだ朱色の亀背橋と呼ばれる木橋は安全の為、一度に10人しか渡れない。橋を渡らずそのまま進むと七尊堂の前に出る。    

本堂

 明治38年(1905)から大正7年(1918)にかけて竣工されたもので、東海屈指の建造物である。中央に「深奥山」の山岡鉄舟の筆になる大扁額が掲げられている。本堂中央に釈迦如来、脇侍に文殊・普賢の二菩薩が祀られている。

    「らかんの庭」と舎利殿

 本堂裏の「らかんの庭」は江戸時代宝歴年間(1751~1764)に造られ、斜面を利用して幾多の羅漢が安置されている。更にその高所には京都銀閣寺風二層式の舎利殿がある。

    半僧坊真殿

 鎮守半僧坊大権現を祀る。明治14年(1881)の大火直後に、再建された。

    七尊菩薩堂(重要文化財)と三重の塔

 七尊菩薩を合祀した鎮守堂で応永8年(1401)建立。杮葺造りで県下最古の建物。其処から左へ進むと朱塗りの三重の塔がある。大正12年(1923)建立、寄進された。

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2005年12月10日 (土)

犀ケ崖

戦国時代、武田、織田、徳川の古戦場として知られる三方原古戦場がある。今の浜松市三方原町を中心とする地区で、以下にその概要に就いてご紹介する。

三方原古戦場で、唯一特定出来る場所が、この犀ケ崖古戦場(現在は、浜松市鹿谷町)である。

 犀ケ崖と呼ばれる範囲は、はっきりしないが、この付近から下流約450㍍の間に、急な崖が連続している。しかし当時の崖の大きさや深さは今は、はっきりとはわからない。元亀3年(1572)12月、家康は三方原において武田信玄に一戦を挑んで大敗し、浜松城に逃げ帰ったがその夜、犀ケ崖付近で地理に暗い武田方を急襲して、この崖に追い落としたと伝えられる。崖上の宗円堂には、この戦による両軍の死者の霊が祀られており、付近には家康の身代わりとなって討死した夏目吉信の碑や、しんがりを務めて壮絶な討ち死をした本多忠真の碑が犀ケ崖を凝視するように立ちつくしている。崖の北には大島蓼太の「岩角に兜くだけて椿かな」の句碑が建っている。

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今に残る「犀ケ崖」の渓の一部

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大島蓼太の句碑「岩角に兜くたけて椿かな」

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2005年12月 9日 (金)

続、舘山寺とその周辺

正直に言って近くに住みながら、舘山寺へ長らく行っていなかった事は前に述べた。況やロープウェイに乗った事は勿論無い。前述のように、

舘山寺の麓に広がる舘山寺温泉地と、対岸の大草山(標高113㍍)を結んで、ロープウェイが湖上を走る(所要時間は約4分、往復800円)。降りた大草山山頂には浜名湖オルゴールミュージアムがあり、エレベーターで屋上に上ると浜名湖全景が展望出来る。

特にオルゴールミュージアムに興味があって行って見た。

先ずは屋上に上ってみると、右手に舘山が眼下に見え、正面に舘山寺温泉郷が湾を抱いて見える。又、北側には東名高速の浜名湖大橋が見える。

その屋上に ミュージカル・カリヨン がある。オルゴールの原点とも言われる。毎時時刻に合わせてメロディを流す。2,3Fには19世紀半ばからのオルゴールから、フェアグラウンドオルガンまで約700点の貴重なコレクションが一堂に展示されている。1Fはオルゴールショップとなっている。

浜松駅のすぐ近くにある、楽器博物館とは比較にならないが、兎に角興味のあるミュージアムである。

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屋上より東名浜名湖大橋を望む

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屋上より舘山(右方)と舘山寺温泉郷(正面)を望む

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屋上のミュージカル・カリヨン(毎時時刻に合わせてメロディーを流す)

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楽しいオルゴール・ショップ(お手ごろのお値段で買えます)

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2005年12月 8日 (木)

舘山寺とその周辺

浜松市の浜名湖に面した小さな半島の一角に舘山寺温泉がある。この名はその半島の先端にある舘山の麓にある舘山寺から来た名前である。

12月8日が近づいた6日に、その舘山寺にお参りに行ってきた。と言っても、この寺へお参りするのは、3~40年ぶりのこと。街で昼食をして、そこで色々聞いてから小半日その遊歩道を歩き回り、岩によじ登ったりして来た。

舘山寺とその周辺に就いてご紹介する。

 浜名湖に突き出した庄内半島の先端に標高50㍍の舘山があり、この麓の舘山寺は、曹洞宗の禅寺で、弘仁元年(約1200年前)弘法大師により開創されたと伝えられている。本尊は虚空蔵菩薩で、秋葉三尺坊大権現が鎮守として祀られている。隣接して縁結地蔵尊があり、更にその横に愛宕神社がある。

 半島先端一円は良く整備された遊歩道が巡らされ、浜名湖の内浦(舘山寺温泉方面)と湾外の景観を楽しむ事が出来る。

 舘山山頂には景勝地の象徴として、高さ約16㍍の大観世音菩薩像が昭和12年(1937)建立された。

舘山の中腹の東側には穴大師がある。弘法大師が舘山寺開創の折、籠もった霊窟で、窟の奥に自作の石仏が祀られ、眼病平癒を願って多くの絵馬が掲げられている。

半島の北端に近い場所に展望台があり、奥浜名湖一帯を望見出来、近くの富士見岩は天気が良ければ二つの岩の間から富士山が見える。更に半島の最東端に西行岩があり、西行法師はここでよく瞑想に耽った。「館山の巌の松の苔むしろ都なりせば君もきてみむ」と、この岩上で詠んだ。

舘山寺の麓に広がる舘山寺温泉地と、対岸の大草山(標高113㍍)を結んで、ロープウェイが湖上を走る。大草山山頂には浜名湖オルゴールミュージアムがあり、直ぐ近くに国民宿舎「浜名湖舘山寺」がある。

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舘山山頂に立つ大観世音菩薩像。

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展望台から奥浜名湖方面を望む。東名浜名湖大橋が見える。

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2005年12月 7日 (水)

役に徹しきる

仲代達矢氏の「私の履歴書」(日経新聞)の連載が終った。その中に、五味川純平著「人間の条件」を映画化した際、その主人公である梶上等兵を、氏が演じるくだりがある。

俳優と言う職業も本当に役に徹しきるには、監督やカメラマン等と共に、かほどまでに努力するものかと改めて知って感動した。

「人間の条件」は、私も愛読した本であるから、殊更に強く感じた。わが国の戦争文学の記念碑的作品と発刊当時、評論家である臼井よしみが絶賛した作品で、今もその評価は変っていない。因みに本書は累計1300万部も売れたという。

主人公の梶は、インテリで強固な良心を持っているが、ひ弱ではない。梶を演じる撮影の一場面の記述には「小林正樹監督と宮島義勇カメラマンのリアリズムは徹底していて、行軍に疲れ切った兵隊たちの姿を撮る時には、カメラが廻る2時間も前から重装備で歩かされた。」

「痩せるために監督と私は眠らないようにした。不眠と疲労の極地でカメラの前に立った。梶はやがて力尽き、凍った地面に倒れ伏す。」

と、いった内容の記述が随所に出ている。私は、この映画は見ていないので、その迫真力をこの目で確かめては居ないが、原作や、この役に徹しきった記述を読むと、さぞかし素晴らしい映画になっていただろうと想像する。

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2005年12月 4日 (日)

浜松城

浜松市役所に隣接して浜松城とそれを囲む公園があり、散歩している人、親子連れで遊んでいる人、ジョッギングしている人、天守閣に登っている人等々、市民の憩いの場でもある。

私のように浜松市といっても外れに住んでいる者にとっては、その気が無ければ中々行く機会が無いが、久しぶりに行って見た。偶々豊後竹田市の岡城址と続・岡城址を書いたので、浜松城に就いてもご紹介する。ただ私は、再現された建造物より、遺されているものの方に関心がある。

浜松城

浜松城は徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で、長子信康に岡崎城を譲り、元亀元年(1570)6月にこの城に移って来た。元来、平山城であったが、次第に壊され、城域が狭まり、現在は、東西600㍍、南北650㍍の規模で、南の東海道に大手門が開き、東から西へ三の丸、二の丸、本丸、天守台と連なり、順次高さを増す。家康は駿府城に入るまで約17年間、この城を本拠として徳川三百年の基礎を築いた。

家康の後、城主は代々譜代の大名が勤め、在職中に老中にまで栄進した人が多い。このことから世に出世城と言われる。

現在の建物は昭和33年(1958)に再現されたものだが、野面積みの石垣は往時のままで、独特の雰囲気の中にも歴史の重みを感じさせ、浜松市の史跡に指定されている。

    石垣

 石垣は荒々しく、粗雑で一見崩れやすいように見えますが、400年余の風雪に耐え、今なお当時の面影を残している。この石垣は野面積みといい、自然石を上下に組み合わせ積む方法で、慶長以前はこの方法が多く用いられた。石の大きい面を内側にして長く押し込み(牛蒡積み)、その内側に小型の栗石を積め、さらに砂利を入れ、石垣表面の隙間には詰め石をし、外観は乱雑だが、堅固に造られている。特に天守台と天守門跡付近の石組が堅く石も大きなものが使われており、突角には算木積み法が使われている。

    天守曲輪

 ここは丘陵の西の端の最も高い所にあり北東と南東に張り出した菱型(東西56㍍、南北68㍍)に近い形をしている。周囲は低い土塁があり、その下に石垣をめぐらしている。東に天守門、西に埋門があり、内部は広場となっていた。

    井戸

 この井戸は銀明水と呼ばれていたという。浜松城には天守台に1、天守曲輪の埋門の傍に1、本丸に1、二の丸に3、作左曲輪に4、計10本の井戸があったという。天守台の井戸は、再建の時に残し、今は天守閣の地下室にある。

    浜松城公園日本庭園

 この庭は浜松城の足元に位置する庭園として、また郷土の自然風土に溶け込み市街地の中で植物による四季の変化や日本庭園の良さを味わえることを主題として作庭されている。

 自然地形の高低差と、水との関連も考慮して広葉樹が多く植えられている。谷間に上、中、下の三段池と夫々に大滝、小滝、滑滝が設けられ、これらを観賞するため回遊式の園路が巡らされ、上池に石橋、下池に木橋が架けられ庭園の添景となっている。庭園の各所には石灯籠が配置され、敷石には切石敷・寄石敷・玉石敷が配置されている。

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     浜松城

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2005年12月 2日 (金)

心通う友

心通う友を持つことは幸せである。七夕のように、年に一度会うだけで何時も会っているかのような友と今年も会った。

今年は、浜岡原子力館と御前崎燈台を訪れた。出来れば浜松の楽器博物館もと思ったがそれは多少欲張りというもの。

御前崎に立つ純白の燈台にはロマンが在る。御前崎の地名は「最大の岩礁」という意味とのこと。燈台の眼下には無数の岩礁に黒潮がぶつかり、海鳴りと飛沫の花を咲かせる。

燈台の螺旋階段を70段上り、更に15段の鉄の階段を上ると、回転式3等閃光大型レンズの前に立つ。外は烈風に吹き曝され帽子は手で押さえていないと吹き飛ばされる。

今から凡そ370年前、徳川幕府は船の道標としてこの地に、見尾火灯明堂を建てたのが始め(現燈台の傍に見落とすほどの大きさで建っている)。今の燈台は明治7年(1874)5月1日に点灯開始された。当時は回転式1等閃光レンズを使っていたが、太平洋戦争中に壊され、前述のレンズに変っている。レンガ造りの灯塔は建設以来130年を経ている。

燈台に隣接して山口誓子の句碑が立っている(写真)。

  碧の濃き灘通り来し土用波  誓子

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又、丸山 薫の歌碑も立っている。

  おお御前崎 ここの断崖で海は二つに切られている

      駿河の光と遠江の風に    丸山 薫

御前崎を詠った句は、

 寒潮の難所に届く灯台光     誓子

 燈台を降りる春着の裾押さへ  いとが

この御前崎は、太平洋戦争下連日米軍機の進入口になったのは有名である。

燈台の前に、ちんまりした食堂があり、そこで食べた厚さ3cmの刺身は美味しかった。友との尽きない話を惜しみながら、灯の点る浜松駅へ戻って、そこで別れた。

 

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2005年12月 1日 (木)

続、岡城址

岡城址の石垣は美しい。高石垣の上から下を見下ろすと眼も眩むばかりで高所恐怖症の

isigaki_nozura_tumi 人など、とても耐えられない。日本三険城と言われる事が良く判る。

資料に依れば、城郭の石垣には野面積み、打ち込みはぎ積み(又は割石積みともいう)、切り込みはぎ積みの代表的三種類が ある。

上の写真は、野面積み(のづらづみ)石垣と呼ばれ、慶長以前に使われた方法で、自然の石を加工しないでそのまま積み重ねる方法で、(城に限らず一部には古い棚田の石垣などにも使われている)、石の大きい面を内側に長く押し込んで積むので外観はあまり良くないが意外に堅固である。

打ち込みはぎ積み(又は割石積み)石垣は、石の角を叩いて平らにして積む。安土城に始めて使われ近世城郭の大部分がこの方法という。

切り込みはぎ積み石垣は、石を削り、綺麗に整形して積む。美観に優れている。

下の岡城址の高石垣の写真は、角の部分に、切り込みはぎ積み石垣を用い、その他の部分に、打ち込みはぎ積み石垣を併用している。角部の曲線の美しさは素晴らしい。

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下の同じく岡城址の写真は、切り込みはぎ積み石垣で、外観の美しさは折からの紅葉とあいまって、息をのむほどである。

okajyo_isigaki_2  

岡城址には、この三種類の石垣が、その場所を得て、見事な調和を保っている。

私は、昔の姿をそのままに残している松本城、姫路城等々には魅力が在るが、消失後再建した、近代材料を使った城よりは、かえって城の石垣だけが往時を止めている城址に魅力を感じる。

「荒城の月」の名曲と共に岡城址は感動的な城址である。

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