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2005年10月27日 (木)

秋深む

信州の山々は今、紅葉の季節とあって粧いを深めていた。

私が泊った山小屋を囲む木々の紅葉も8分と言った所。特に夕日に透けて見える紅葉は美しい。

yuu-momiji

山小屋の谿側の夕紅葉。思わず口ずさむ旧小学唱歌の一節、秋の夕日に照る山紅葉 濃いも薄いも数ある中に 松をいろどる楓や蔦は 山のふもとの裾模様。

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取る人も無く鳥の餌になっている山小屋の渓側の小柿。今年は豊作だ。鳥のこゑが盛んに聞えた。

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2005年10月20日 (木)

老師の一喝

2,3年前、NHKプロジェクトXで、「高柳健次郎氏とTVの開発」の話があった。其の時、私と私の友人との間で意見交換をした事があったが、それに似たような話が、去る10月16日の新聞に「老師の一喝」として橋本五郎氏の話が載っていた。

「30年前、大阪の高麗橋吉兆で『名月茶会』なるものが開かれた。正客(しょうきゃく)は今年8月、105歳で大往生した臨済宗大徳寺派の立花大亀老師、次客は松下電器産業の創業者、松下幸之助。国税庁長官から広告業界に転じた現博報堂最高顧問、近藤道生(みちたか)(85)をお祝いする茶会だった。

ところが正客が突然、次客にこう言い放ち、その場は一瞬凍り付いてしまった。

『君のお陰で、こんなに心がなく、物ばかりのいやな日本になってしまった。君の責任で直してもらわなければならん』

電化製品で便利になることは、精神的に退化することではないのか。老師はそう言おうとしたのだ。近藤さんら4人は、息をのみ、一斉に松下さんに目を向けた。しかし、松下さんは身じろぎもせず沈黙、その温容が崩れることはなかった。 云々」

と述べ、以下本論の政治の話になって行くのだが、老師の此の強烈な発言の裏に潜んでいる本音と温情を感じ、友人との会話を想起した次第。

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2005年10月19日 (水)

戸隠から姨捨へ

戸隠から飯綱高原を過ぎり、通称七曲を下ると善光寺の裏手へ出る。スケジュールの関係で善光寺にお参りする時間がなく、右に往生寺、左に善光寺を見ながら下る道の両側は一面の林檎畑。長野県庁を右に見て直進すると、やがて川中島古戦場址に出る。そこから右に曲がって善光寺平西端の姨捨へ出る。

姨捨は棚田、田毎の月と共に有名な俳人の多数の句碑が並び、秋には観月会と俳句会が長楽寺で開かれる。

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          姨捨の棚田風景

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左:月見堂と桂の木                                 

右:芭蕉翁面影塚                                                                                                                                                                                  

長楽寺の境内には句碑多数が並んでいる。桂の大木の横にある月見堂へ上る石段のところには有名な芭蕉翁面影塚があり、

  おもかげや姨ひとりなく月の友

の句が刻まれている。

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               観音堂と姨岩

姨岩の伝説は楢山節考と共に今も伝えられ、其の由来が細かく書かれている。

多数の句碑はこの岩を囲むように立ち並び、芭蕉句碑と共に長楽寺の境内を賑わせている。

 信濃では月と佛とおらがそば(一茶)

 名月や思ふまじきは過去未来(可都三)

 名月に瀬音ひそめて千曲川(里軒)

 枯れ果てゝ信濃路はなほ雪の前(登四郎)

 くるみ割るこきんと故郷鍵あいて(翔)

短歌にも、

わが心なぐさめかねつさらしなやをばすて山にてる月をみて(よみ人知らず)がある。

  

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2005年10月18日 (火)

白馬から戸隠へ

白馬村の松川に架かる橋から見た北アルプスは素晴らしい眺めだった。白馬鑓ケ岳・杓子岳・白馬岳と並ぶ山頂には未だ雪はなかった(写真)。

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鬼無里村(今は長野市鬼無里)に入る。鬼無里と書いて「きなさ」と読む。鬼無里の由来にからむ松巌寺には、「鬼の無い里」の謂れが綿々と綴られている。

松巌寺の本堂の天井は格天井になっていて、その各桝には絵と俳句が描かれていて豪華だ(写真)。本堂から少し離れて輪蔵式の経蔵があり又、山門とは別に鐘楼の下を通る事が出来る(写真)。

鬼無里や戸隠には、其れ相当の伝説や神話が残されているが平成の大合併でそれらの地名と共に、それらのものが失われている例が多いのも事実だ。寺の周囲にはまだ藁葺き屋根の民家が散見され山峡の風情を僅かに残している。

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goutenjyou こんな素朴な風景が開発とか合併とかの名のもとに、むざむざと失われて行くのを見るのは耐え難い。

話は飛ぶが、長野駅なども其の例に漏れない。長年、長野市民に愛された善光寺の形を模した駅舎が、新駅に其の影も見えなくなったのは返す返すも残念だった。せめて一部でも残しておいて欲しかった。

戸隠(戸隠村も今は長野市戸隠)では、中社の入口にある宿坊「極意」で本当に美味しい蕎麦を食べ、同行全員が満足した。宿坊の庭の木は既に紅葉半ばだった(写真)。流石に此処は団体客で賑わっていた。

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戸隠神社は、宝光社・中社・奥社と別れ、特に奥社には神話にある、手力男命が投げたとされる巨石「天の岩戸」がある。鬼無里も戸隠も夏には水芭蕉が素晴らしい。

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2005年10月16日 (日)

大町から白馬へ

信州安曇野の秋を楽しみながら、大町市内の農園で林檎狩りをした。周囲の山々は薄紅葉で本格的な紅葉はもう半月位か。

大粒の良く熟れた実は甘みののった「信濃スウィート」と名づけられた林檎で、捥いで直ぐ食べても口の中でとろける様だった。澄んだ山の空気も又格別だった。

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同農園で栗ご飯を食べる。野沢菜と沢庵それに茗荷の漬物の味は流石信州ならではの味だった。快晴の秋の陽を浴びながら、白馬と安曇野の中間にある青木湖へ行く。青木湖は水が澄みきって、ひっそりと静まり返っていた。湖畔に椅子が一つぽつんと置かれていたのが印象的だった。

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湖畔には「塩の道」と呼ばれる古道があり、鬱蒼と茂った木々の根元には、千草に埋もれるように石仏が立っていた。

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2005年10月11日 (火)

上田紬を織る女

上田紬は、真綿からつむいだ紬糸や生糸を経糸(たていと)に、緯糸(よこいと)には紬糸を使って織り上げる。丈夫で着やすく落着いた色柄等が上田紬の特色である。

上田紬の名が有名になったのは関ケ原合戦の真田昌幸、幸村父子の大奮戦によるという。その後藩主が替わり、時代が変わり幾多の変遷を経て受け継がれているが、現在も紬本来の糸使いの良さ、風合いの良さ、素朴さ等から多くの人に愛好されている。

無言館、信濃デッサン館の中間に、上田紬を織り、シャツ・ネックタイ・ヴェスト・帽子等を始め様々な小物まで、仕立てて売っている店があり、色鮮やかな上田紬の商品を楽しむ事が出来る。

私は、機を織る音を聞くと、母が冬になると玉繭(屑繭)を紡いで糸を作り、機を織っていた光景と音を思い出して、そこはかとない郷愁を覚える。

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上田紬を織る女(信濃デッサン館の近く)

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2005年10月10日 (月)

踊るサンバ

浜松市には、日本国内最多の約1万6700人のブラジル人が住んでいる。

浜松市は、多くの市民にもブラジル文化を紹介しようと、今年も「はままつ サンバ・フェスティバル2005ブラジル・デー」を開催している。

今年は遠州鉄道新浜松駅周辺に特設ステージや物販等のテントを始めて設置。ブラジル人学校の子供たちがステージでサンバを披露した。

又商店街では、「まちなかサンバ」と銘打って3チームがパレード。「ウニドス・ド・ウルバナ」(名古屋市)がモール街に繰り出した。激しいパーカッションのリズムに乗った踊に買い物客もしばし見入った。 

私は其れとは知らず昨日、偶々浜松駅へ用があって行ったらその催し物に出くわして、思わぬ異文化の一端に触れることが出来た。

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踊りながらモール街を練り歩くサンバ・チーム(読売10/10朝刊より)。

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2005年10月 8日 (土)

全日空 NH1055便

現職中は海外出張で世界のあちこちに出掛けたが、観光は仕事の合間に時間の取れる時だけ。今から考えると、もう少しやりようがあったのではないかと思う。

一線を退いた翌年(2000年)、友人のお誘いを受けて、10月24日から31日迄、3夫婦6人のハワイ行きとなった。行く先はマウイ島で、妻にとっては始めて見る海外、特に憧れのハワイ旅行とあって、随分楽しかったようだ。その上、同行の友人たちも本当に気持ちの良い人々だったのでその楽しみも倍加した。私もハワイは出張時、トランジットでホノルルに降りた位で、ハワイはその意味では始めてだったし、プライベートな海外旅行も始めてだった。往き帰りとも、当時の名古屋国際空港を使用し、乗機はANA(全日空)だった。

(今は、名古屋からのハワイ行きには、JAL(日本航空)しかなくANAや、前には有ったノースウェスト航空も運行していない。競争原理からも残念なことだ。)

この旅行の帰路は、マウイからホノルルに出て其処から、ANAのNH1055便に乗った。機中でクイズがあって偶々正解だったので、ささやかな賞品を頂いた。其の中の一つにANAの飛行機模型(写真)も入っていた。尻尾のところから息を吹き込むと、美しい機体になる。記念に今も私の書斎の机の上にハワイの方向に向かって吊るされている。

尚この旅行以後、隔年ハワイに出掛けている。

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  クイズ賞品の一つ、ANA飛行機模型

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2005年10月 6日 (木)

良寛さんのうた

「こころよからぬものは…」

      ことばの多き、口のはやき、さしで口

      もの知り顔のはなし

      この事すまぬうちにかの事いふ

      唐ことばを好みてつかふ

      にくき心をもちて人を叱る

これは、「良寛さんのうた」に載っている「自戒のことば」と聞いた。今の時代に当てはめてみても、そのまま通用すると思うが如何なものだろうか。

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2005年10月 5日 (水)

水上飛行機

水上飛行機と言っても日本では余り知られていない。しかしアラスカ方面へ旅行した人ならきっと、お世話になっている筈。

この水上機は波が無いと離水出来ない。波が無い時は、水上を輪を描いて廻り、自分が立てた波に乗って離水する。人生の一面を見ている感がある。

アラスカにシトカ(Sitka)と言う港町がある。1906年頃まではアラスカ準州の州都だった所。ケチカンの北西、ジュノーの南西に位置し漁業と林業が中心の町だが、其処の材でシトカ・スプルースという木材を嘗ては「Y社」が大量に買っていた。P製品の心臓部にあたる部分に使われていた為で、恐らく今も使用している筈である。私が「T工場」を担当していた期間がもう1年長かったら、恐らく、ケチカン、ランゲル、シトカ、ジュノーといったアラスカの町へ、出張していたかもしれない。

そんなことを、丁度アラスカ西岸へ来ていると報らせてきた、世界一周クルージング中の船上の友人にメールした所、ジュノーで撮った水上機の写真を送ってきてくれた。私にとっても心温まる写真なので今も大切な写真の一つである。

seaplane

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2005年10月 3日 (月)

信州の鎌倉・塩田平と収穫風景

鎌倉幕府の執権北条泰時の弟重時が信濃の守護として、塩田に守護所を置いた。鎌倉・塩田を街道によって結び、義政、国時、俊時の三代で50有余年治められ、この塩田の地に鎌倉風の文化が開けたところから、「信州の鎌倉」と呼ばれている。

別所の国宝安楽寺八角三重塔、常楽寺石造多宝塔を始め、塩田の中禅寺薬師堂、前山寺の未完の三重塔、武田信玄ゆかりの由緒ある生島足島神社そして國時の菩提寺竜光院等々数多くの古い文化が静かな森の中に、集落の一角、山裾の一隅に散在し、信州のこの地に鎌倉文化が栄えた往時が偲ばれる。

歴史を尋ねて信州の鎌倉を訪れ、ゆったりと休養しようとすれば、観光湧湯の街、別所温泉がある。ここには八角三重塔や多宝塔、北向観音がある。かつて映画「愛染かつら」で全國老若男女の紅涙をしぼったゆかりの桂の大木が今なおこの北向観音の境内に生い茂っている。自然と歴史の街、信州の鎌倉を訪れる人は多い。(切手シールの説明より一部抜粋)。

塩田平には又、稲田を始め畑が開け、今は稲の収穫の最中である。最近はコンバインで藁まで刻んでしまうので、稲架風景や、藁ぼて(藁ぼっち)を見る風景も少なくなったが、此処ではそれが見られる。稲架に隠れて林檎の収穫も今盛りだ。一寸足を伸ばすと上田城址や蘇民将来護符で有名な信濃国分寺があり、江戸時代の俤をそのままに梲(うだつ)を掲げた海野宿があり、更に大法寺の見返り三重塔が塩田平を見下ろしている。夫神岳・女神岳・独鈷山の裾に広がったこの塩田平の真ん中を千曲川がゆったりと流れているのも詩情をそそる。この時期、多くの俳人もこの地を訪れる。付近には「無言館」「信濃デッサン館」もある。

haza

      稲架

harvest

      脱穀

warabotti

      藁ぼて

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2005年10月 2日 (日)

続、信濃デッサン館

この「信濃デッサン館」は昭和54(1979)年6月、窪島誠一郎が20数年にわたる素描コレクションの一部をもとに、私財を投じてつくりあげた小美術館である。

収録された村山槐太、関根正二、戸張孤雁、靉光、松本竣介、吉岡憲、広幡憲、古茂田守介、野田英夫らはいづれも「夭折の画家」とよばれる孤高の道を歩んだ薄命の画家たちで、現存する遺作品は極めて少なく、特に槐太、正二のデッサンの集積は貴重である。槐太は17歳頃、正二は16歳の春に、夫々この信濃路、長野近郊辺りを流連彷徨している(入場券の案内の内から抜粋)。

絵画についての専門家の批評は色々あるだろうが、彼等の心境を慮ると、何とも言えない感動に胸を揺さぶられる。作品の一部を御覧下さい。

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         村山槐太作 裸婦

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左:関根正二作 自画像                    右:松本竣介作 少女像 

                                                                                                                                    

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2005年10月 1日 (土)

信濃デッサン館

無言館(戦没画学生慰霊美術館)から程近い所にある、古刹前山寺の境内脇にひっそりと佇んでいる信濃デッサン館は、無言館に先立ち且つ同じく窪島誠一郎氏の苦心の末の作。趣旨と佇まいを写真で御覧下さい。文字通りデッサンを主体にした美術館で、無言館とは又別な感動を催します。

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          デッサン館設立趣旨(窪島誠一郎著:信濃デッサン館日記から) 

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      信濃デッサン館入口風景

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