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2005年8月30日 (火)

続、無言館

終戦の8月が過ぎぬ内に無言館のことで書き足したいことがあって気を揉みながらも、諸種の用件が重なり今日まで来てしまったが、漸く書ける時間が出来た。

始めて無言館を訪れた時、予期しない出会いに思わず立ちすくんだのは、浜松市出身の中村萬平氏の遺作「霜子」を見つけ出した時。全体にひび割れる傷みは、戦災のさなかをこれだけはと折り畳まれ守り抜かれた痕跡でもあろうか。わが身をいとおしむように胸元をかき抱く妻の裸像に、「養生をして立派な子を産んでくれ」と、身ごもる妻を案ずる萬平の心情がありありと読み取れる。無言館の資料によれば「萬平が出征して間もなく、長男暁介出生。しかしその半月後に最愛の妻・霜子は産後の肥立ちがわるく他界する。妻の死を祖国からの手紙で知った萬平は戦地にのぼる満月をあおいで泣いた。

その暁介さんもすでに50半ば(1997年8月現在)だ。世間の眼に身をちぢめながら、父のモデルをつとめていた母・霜子の気持ちが最近3 わかるようになった。のこされた絵が父の生命であるなら、その半分の生命は母のものなのだ、と。」書かれている。

一つの歴史を忘却の淵に沈めるのは耐え難い。

過去は時さえ経てば、風化しやがて消えてゆくなどとはもっての他。これほど鮮明に刻み込まれ生きているものかと改めて思い知らされもしたが、そこには若い身空で散っていった者たちの叫び声だけでなく、其れを人夫々に受け止め、自らの心のつかえを吐き出す吐息と、過去への鎮魂の祈りが館内一杯に渦を巻いているような、そんな幻想にいっとき酔いしれた。

生きている限り、過去の全てを清算することなど出来ないにしても、時を経て其れを重荷と思うか否かは人夫々、無言館を後にして、暫くは興奮じみた気分が尾を引いたが、其れは重たい実感とは凡そ程遠いものだった。(註:中村萬平氏は華北で戦死、享年26歳)。

過去3回、無言館に足を運んでいるが、何度行っても新たな感動に胸を打たれる。本文中、友人M.F.氏の「鎮魂の祈り新に」より一部引用させて頂きました。

    

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2005年8月17日 (水)

無言館

 続、終戦日に想う。

 旧友の送って呉れた文章の中の一節に「きけ、わだつみのこえ(日本戦没学生の手記)」に関連して、次のような感想が載せられていた。

 「近所に住む老夫妻が、『きけ、わだつみのこえ の人々は時代に洗脳された哀れな存在だ』と評したのに驚き立腹しました。私が若い時なら、ぶん殴っていたと思います。この不勉強なご主人は、元の職業柄、現代の日本ではモテル人種です。

 今のいい加減な日本社会の、物質的繁栄の内で育った若者は、まあ仕方ない。『戦争中に何故反戦運動をしなかったか』と絶叫して得意になっている学生と違って、私とそして『わだつみの人達』と、ほぼ同年代で、当時の世相を知る筈のこの夫妻のような人は、許し難く思います」と慨嘆し、世紀を越えて子や孫に、戦争とそれに纏わる忌まわしい体験を伝えてゆかねばならない使命感にも似た、語り部の役目といったものを切々と訴えかけてきた。

 

この話に関連して思い出されるのは、信州上田市の別所温泉に程近いところに、ひっそりと佇んでいる「無言館」の事です。1997年5月に開館した無言館について、澤地久枝氏は「無言の語りかけ」と題して次のように述べている。「さまざまな戦死、戦争死を生んだ戦争下の日々を全く知らない世代が多くなった。その死者の中にまだ後世に知られるほどの画歴もなく、成果も手にしていない若い画学生がふくまれていることを、ほとんどかえりみない長い月日が流れた。人生の記録、生きたしるしを、なにによって残すかという若い日のテーマ。それを絵画や彫刻など美術の世界に求めた人たち。云々」とあり、戦没画学生慰霊美術館「無言館」はこのような背景から、野見山暁治画伯・窪島誠一郎氏等の努力によって生まれた。

無言館に一歩足を踏み入れた人は、感動と衝撃とが綯い交ぜて思わず立ち竦んでしまう。

ここを訪れた俳人、有働 亨氏は、その時の感動を次のように詠っている。

   並ぶ絵は無言故山は薄紅葉

   鵙叫ぶ雑草と踏まれし君らよ君ら

   絵は無言ひそかに小鳥来てゐたり

   パレットも遺品のひとつ昼の虫

   雁仰ぐゆゑならずわが涙目は

又、同じく白澤よし子氏は

   鎮魂のさへづりなれや無言館

   花冷やふるさと描きし未完の絵

   征きしまま無言の画布よ春惜しむ

同じく川崎展宏氏は

   初桜無言館を出て無言   

 世紀を越えて、    
 私達は偶々僥倖な巡り合せで20世紀と21世紀の変わり目を見る事が出来ました。20世紀は懸命に生きてきた世紀であり、尊い犠牲のあった世紀であった事を思わずには居られません。「もはや戦後ではない」と言われて久しい今日に於いても尚、戦争によって肉親や最愛の人を失った人々にとっては戦後は今も続いている事でしょう。「きけわだつみのこえ」や「無言館」の主役が増える事のない世の中にしたいと切に願うものです。

mugonkan

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2005年8月16日 (火)

終戦日に想う

     あなたは勝つものとおもってゐましたかと
          老いたる妻のさびしげにいふ (土岐善麿)

私は終戦日が近づくと何時もこの詩をしみじみと思い出す。昨日のY紙にこの詩が、写真つきで掲載されていた。そして改めて、国家の為に命を捧げた人々の為に現在の繁栄が齎されている事を想ひ、其の繁栄が虚構の繁栄にならない事を願うや切なるものがある。

下記の文章は旧友のご意見に対して、私のコメントしたものの一部を修正したものです。

歴史的10日間

1945年8月6日から9日を経て15日に到る10日間は将に日本にとって歴史的10日間と言える。
当時は松代大本営を築きつつあり、坑道は地下6キロに及ぶ。降伏を拒み、この施設を用いる機会が訪れたら日本列島は其の時屍の山を築いたであろう。
原爆投下が終戦への決定的要因となったのは終戦の詔勅の中にも明らかである。にも関わらず当時の雰囲気は、戦争継続の強硬論があったが略奪を免れた終戦の詔勅の放送によって最終的に決定した。終戦の詔勅の一節には以下のような箇所がある。
「加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ……」。

原爆投下側の倫理感に就いてのルーズベルトとトルーマンの相違は、貴説によって知る事が出来ました。トルーマンの出現は日本にとっては不幸な大統領の交代であった。
6,9,10日のサイレンの音を聞く時には、粛然として姿勢を正すが諸々の感慨が胸に迫って込み上げてくるもがある。

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2005年8月12日 (金)

俳句が詠んだ太平洋戦争

この間、NHK ETV特集で「俳句が詠んだ太平洋戦争」が約30分間放映された。其の中から記憶に残る数編を。

    水脈(みお)の果炎天の墓碑を置きて去る(金子兜太)

金子兜太氏はS18年、トラック島へ。そして終戦。多くの戦死した戦友や、犠牲になった島民の墓碑を、船上から拝みながら帰国した。

   遊学の都を去らん秋の雨(古館曹人)

S18年12月学徒出陣。それに先立って古館曹人氏は、恩師に別れの挨拶に行った。当日は学徒出陣の日と同様に雨が降っていた。

   学徒われペンを捨つべく菊白し(古館曹人)

当時の学徒にとってペンを捨てる事は命を捨てる事だと思った悲痛な世代。明日が保障されている今の世相と比較して感無量。

   何処か扉がはためくケロイドの港(金子兜太)

   山上の墓原を行く天を誹(そし)り(金子兜太)

当日の放映の司会進行は金子兜太氏だった。

   啓蟄や兄の潜艦浮上せず(相原左義長)

   爆心地汗する無数の黙(もだ)に会ひぬ(相原左義長)

   被爆手帳遂に手にせず羽化進む(相原左義長)

相原左義長氏も亦、被爆者。

   

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2005年8月 2日 (火)

忘れない

長野の在に、私の従兄で篤農家の誉れの高いK.H.さんがいる。今年83歳になる。彼からは毎年、今頃の時期になると丹精を込めた桃が送られてくる。

彼は小学校しか出ていないが、終始首席で通した頭脳の持ち主でもあり、高等小学校卒業後、最初は旧国鉄時代の長野工機部(当時は入るのが難関だった)に勤めたが、家業の農業に専心する為に中途退職して現在に至っている。この間ありきたりの農業に飽き足らず、品種改良や収量増加に工夫と改善をすると共に、其れを無償で他の農家にも提供したりして、篤農家として地元だけでなく東京まで行って表彰された事が何回かある。

彼から今年も桃が送られてきた。何時も筆書きの達筆な書面が入っている。今年も入っていた。

「(前略)小生も百姓として働き続けて半世紀。定年の無い百姓の人生にも老齢という限界がある事を八十路を歩み始めて知りました。桃作りも本年をもって卒業したいと思います。長年未熟な味を御賞味いただき有難う御座いました。今年の桃の味をどうぞ覚えておいて下さい。

    老いの身の生きとし生きし農の味を桃の香りに想いをこめて

平成十七年盛夏  K.H.生より皆様へ」

とあった。味も忘れまい、それ以上に心は決して忘れない。

このように真摯に生きている人たちを思うと、国民の血税を無駄使いしている輩の存在を見逃すわけには行かない。昨日(8/1)の夕刊読売新聞には、国費を使って海外留学後、早期退職する若手キャリア官僚が増えている問題を取り上げている。さすがに人事院も放っておくわけに行かず、留学費用の返還を義務付ける新たな法制度を導入する方針を固めたとあるが、此れなども国費を使って、個人的なキャリアアップに使われている一例で税金無駄使いの氷山の一角とも言えるのではないか。

(添えられた手紙と共に送られてきた桃の一部~テーブルの上で撮る)

last_peach_from_mr

(送られてきた桃の一部~芝生の上で撮る)

last_peach_from_mr

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