2008年11月11日 (火)

愛情を背にパラリンピック金メダル

11月10日7時PMから約50分間に渉って、あさひTVから「ドキュメンタリ宣言、浜松市出身のスイマー、目指せパラリンピック、身長116cm”祖母”に金メダルを」と題する放映があった。

そのスイマーとは鈴木孝幸君、祖母とは里親として孝幸君を育て上げてきた小松洋さん

先日一通の封書が届いた。中味は「パラリンピック出場選手 鈴木孝幸君を後援してくださった皆様にお礼申し上げます」という、パラリンピック出場鈴木孝幸君後援会からのもの。(写真は同後援会からの挨拶状に掲載されていたもので上が小松洋さん、下が鈴木孝幸君)

今年9月の北京パラリンピックに競泳選手の主将として出場した孝幸君は、50m平泳ぎで金メダル(予選は世界新記録で通過)、150m個人メドレーで銅メダルを、その他の競泳では200m自由形で8位入賞、100m自由形で7位入賞という成績を挙げた。
11 TV放送では北京で金メダルをとった孝幸君が、小松さんの首へそのメダルを掛けてやるシーンが胸を打った。

孝幸君は「小松のお母さん」と呼んで小松さんに育てられた。
保育園長だった小松さんは、孝幸君が赤子の時から育て、やがて里親として自分の家で普通の児童同様に育て、普通の児童同様に小学校へ通わせた。
その為に小松さんは自動車の運転免許を取得して小学校へ送り迎えした。
決定的な身体的ハンディがあるのに普通の子同然Photo_3 に育ててきた経過を今度の放送は見せてくれ視聴者の感動を誘った。

小松さんは上記後援会からの挨拶状の中で「重度の障害を負って生を受け、今その身体が力いっぱい泳ぎ、世界の頂点に立っている事を考えると感慨無量です。これも今日まで実に多くの暖かい支援を賜ったおかげであり、心より厚くお礼申し上げます。」とご挨拶されている。

孝幸君は小松洋さんという素晴らしい献身的な人との出会いによってこれまで普通の子と同様に育てられ、高校から早稲田大学の教育学部に進学し、今は一人で東京で学生生活をしており、今年は4年生として、これからの進路を決める段階に差し掛かっている。

これからも生来の負けん気と素直な性格で社会で羽ばたいていってくれる事を望むや切なるものがある。

パラリンピックに就いて一言。
パラリンピックに対する各国の対応もまちまちで日本の強化態勢は世界に遅れをとっている。
日本ではオリンピックは文部科学省が担当しており、パラリンピックは厚生労働省が担当しているが、「パラリンピック出場の選手は個人負担が200万円を越し、個人としては限界を超している」という。
孝幸君を北京へ送り出すために組織された後援会では255万円の浄財が集められ、今度の出場とな った。

パラリンピック出場に就いて国は、今後どう考えるのだろうか。

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2008年11月10日 (月)

石蕗の花

   日本に帰りて石蕗の日向あり   

俳人協会・俳句文学館発行、平成20年11月カレンダー所載句である。
作者は大峯あきら氏で、山本洋子氏の解説がある。

『ドイツの長旅から帰った作者の前に、石蕗の花の咲く日向がある。その沈潜した黄色は、よその国にはないものだ。それは、母国に帰ってきた、という実感とともに、冬のはじめに開く石蕗の花の、人の心の奥深くを照らすような不思議な花明かりを前にする作者の姿を浮かび上がらせる。
 一雲もなきミュンヘンの空が好き〉。平成15年、訪独一連の句がある。この時、長年の友人ヘンリッヒ教授の自宅を訪れている。
 〈繚乱の千草に君が門はあり〉。彼が、チューリンゲンにある詩人ヘルダーリンの墓から移植した樫を詠んだ〈樫の苗つきたる秋の館かな〉もある。
若い頃の留学の地ドイツは、作者にとっていつも懐かしい地なのであろう。Img_5289_2 帰国してまず出合ったのが、菊のような華やかな花ではなくて、庭の隅にしずかに咲く石蕗の花であったのは偶然であったかもしれない。しかしその花との出合いが、作者にとって詩的必然であったことが分かる。この句の「石蕗の花」は、他の花と変えることはできない。(山本洋子)』

作者大峯あきら(本名:顕)氏は、昭和4年(1929)生まれ。中期フィヒテ研究、西田幾多郎研究者として知られる哲学者であり、大阪大学名誉教授でもある。
  若き日の母の思ひ出漱石忌
  村々につちふつてゐる大和かな
等の作もある。

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2008年10月22日 (水)

佐鳴湖畔の蘆刈り

浜松市の一角にある佐鳴湖。その湖畔のを22日の9時から地元の佐鳴台小学校5年生140名全員が揃って刈った。
引率の先生に依れば、総合的学習時間の一環として「見つめよう私たちの佐鳴湖」をテーマに、自然環境に親しむ一環として行っているそうである。
佐鳴台小学校は転出入が激しい学校で、児童同士の連帯の一環にもなっているようで、異国の人のお子さんらしい児童も混じっている。
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最初に係りの市の担当者から作業上の注意があってから始まる。刈る人、運ぶ人、束ねる人の役割を決め、途中で休憩を取るたびに役目が代わるように組織だった行動になっている。
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慣れない手つきながら一所懸命に刈り、受け取り、束ねて行く姿は微笑ましい。足元は水のあるところ、無いところもあり気をつけて刈る。Img_52871_2  

刈り進んで湖辺の柵が見えると眼前に湖が開けてくる。
引率の先生が声をかける。「未来が見えるようでしょう
良い言葉だ、未来が見えてくる。感じ易い年代の児童には特に響く言葉であろう。
先生に依ると、「この年代の児童の頭の中には今日の蘆刈りが確りと焼きついて、生長してもその記憶が鮮明に蘇るようです」と説明してくれた。
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刈られた蘆はトラックで運ばれる。
近所の茶畑に運ばれ、畝間に敷かれたり、或いは動物園の象の餌にも使われるとのことである。

昔のように蘆葺家が殆どなくなったので、刈った蘆の使い方も変ったと、来ていたお年寄りが話していた。

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2008年10月20日 (月)

計算尺

机の引き出しの隅に、何十年も前に使った計算尺がひっそりと納まっている。今では滅多に見られなくなった懐かしい代物だ。
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Img_5229_2上の 写真は、2本の計算尺で、それに刻まれている目盛りを左の写真に示す。

機械の設計をしていた1955年前後、強度計算などをする計算の道具として主として使われたのがこの計算尺や、タイガー計算機である。

計算尺の目盛りは対数目盛りになっていて、足し算をすれば掛け算の結果が出るようになっている。
Img_5232_2 例えば(12×15=180)は(12+15)として見れば答えが180と表示され、カーソルの赤線を該当数字に併せると、更に読みやすいように出来ている。左の写真はその例で、位取りは自分で決める。(写真は何れもクリックで拡大)

Tiger22 序にタイガー計算機(写真はネットより引用)についてふれておくと、これは例えば掛け算をしようとすれば、ハンドで被乗数をレバーで設定し、乗数をその数だけハンドルを前方または手前に回して計算するもので、一日計算をしていると肩が抜けるほど疲れた。

今は、子供でも簡単に持っている計算器が普及して、将に今昔の感がある。だからこんな古くさい計算尺の話をしても判って貰える人が少なくなった。

計算尺と言い、タイガー計算機といい、何れも青年時代の思い出を辿る縁の一つで、手垢の滲んだ計算尺は私にとっては懐かしい物の一つである。

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2008年10月12日 (日)

薪能

10月9日、浜松の文化芸術大学の屋上芝生の特別ステージで薪能松風」が開催された。これは同大特別公開講座として開催されたもので、これに先立ち7日は朗読劇「松風」が、8日は「舞台裏から見る景色」に就いての講座があった。

松風」は、世阿弥初期の幽玄能で、「熊野、松風に米の飯」と評され完成度の高い演目という。
あらすじは、『旅の僧が須磨の浦を訪れ、磯辺の一本の松に目を留めた。この松の謂れを所の者に尋ねると、それは嘗て在原行平が愛した、松風・村雨という二人の海人乙女の墓であるという。
日が暮れて僧は近くの汐屋で一夜を明かそうとする。すると二人の海人が現れる。それこそが松風・村雨の亡霊であった。二人は汐を汲み、歌を歌いながら、月は一つなのに、二つある桶の水面には月の影がそれぞれ映ると興ずる。
僧は二人に在原行平の和歌に就いて語った。行平が松風と村雨のために旧跡を弔ったのだと聞かせる。
姉の松風は行平のことを思いながら、涙ながらに行平の形見の衣装を取り出しそれを纏うと、松が行平に見えてくる。村雨は姉を止めるが、松風は行平の別れ際に残した歌を歌い舞う。
 「立ち別れ いなばの山の峰に生ふる まつとし聞かば今帰りこん」
だんだんと夜が明け、僧が目を覚ますと、そこには松風ばかりが吹き残っていた。』

シテは梅若猶彦、ツレは梅若善久、ワキは福王茂十郎ほか等で、薪能など始めての者にとっても何か胸に迫るものを感じさせる。
Img_5086_7 当日のステージは二階屋上に設けられ、客席はそれを囲んでびっしりと椅子が並べられ、折しも快晴だった空からは涼風が心地よかった。空には小さな月が掛っていた。
  芝生席の最後尾に居た私の席からはステージが遠かったので実演写真は静岡新聞より引用した。
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薪能(たきぎのう)は、主として夏場の夜間、能楽堂、もしくは野外に臨時に設置された能舞台の周囲にかがり火を焚いて、その中で特に選ばれた演目を演じる能。「薪の宴の能」の意。起源は平安時代中期にまで遡り、奈良の興福寺で催されたものが最初だという。興福寺では、現在5月の11日、12日に薪能が行われている。ただし興福寺では薪御能(たきぎおのう)と呼ぶ。また、薪御能の源流はあくまで神事・仏事の神聖な儀式であり、野外で薪を燃やせば薪能になるのではないとしている。

現在、各地の神社仏閣(平安神宮、増上寺、生国魂神社など)や庭園(大阪城西の丸庭園、新宿御苑など)で催されている。

京都郊外の薪村(たきぎむら)で行われたので薪能と呼ばれた。』(Wikipedia)

同大の薪能の特別公開講座は今回で8回目(8年目)を迎える。第1回目の講座の開講時、時の学長だった木村尚三郎氏は次のように語っていた。
『お能はその夜の世界を拓いて見せてくれます。そこには人間中心の欧米的ないし近代的な、初めや終わりはなく、過去と現在の唆別も、演者と観客の別もありません。その代り、笛や鼓を通して風の音や山の木霊(こだま)が聞こえてきます。謡や舞を通して、人の心の奥底が見えてきます。能では面(おもて)をつけていない素顔を、直面(ひためん)といいます。それは私たちが「素顔」という面をつけて、心の底を見せないように日常を演じているということです。』

江戸時代、薪能は徳川幕府の手厚い保護を受け、繁栄していた。しかし、明治維新によって、新政府が成立されると徐々に衰退の道をたどることになった。

現在、全国各地で行なわれ、多くの方々に親しまれている野外能としての薪能は、第二次世界大戦後に広まったもので、比較的新しいものである。

火と空気が織り成す舞台で能を舞う。それら三者が一体となった心地よい調和を生む。
     序の舞を火蛾仕る薪能    高橋たか子
    急調に入りし羽衣薪能    伊藤 徹
    今し舞ふ薪御能は田村らし  伊藤 徹      

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2008年10月 7日 (火)

晩年といへば

晩年といへばむらさき湿地(しめじ)など

俳人協会・俳句文学館発行、平成20年10月俳句カレンダー所載句である。作者は三田きえ子氏鈴木紀枝氏の解説がある。

 『晩秋の雑木林は、その澄んだ空気と光に身を委ね、心を自在に遊ばすことのできる稀な空間のひとつである。
 豊かな時間に浸っている中で、作者はムラサキシメジに出会った。湿った地に紫色のかさが列をなし輪を描いて群生する。この光景に遭遇しえたならば、それは眼福の一語に尽きる。
 木々の葉が燃えるように染まるその下で、ひっそりとしっとりと営まれる生。しばし濁りのない匂うような色を地にふりまいて。
 さて目の前の世界の広がりよりも、後ろに置いてきた世界の深さに心を奪われる時、人は晩年の意識にとらわれ始めるようである。
 だが作者は「晩年といへば」と何気なく主題を提示し、あの山中での「むらさき湿地」との一会の残像を蘇らせるのである。 しかも「など」と軽く納めて、絞ることも断定もせず、詠嘆もしない。主題は淡々と柔軟に展望される。
 晩年のありようを、このように華やぎをもってゆったりと詠んだ句をほかに知らない。平成14年作。(鈴木紀枝)』

この時期に晩年と詠うのは、多少抵抗もあるが、全体的には紀枝氏の解説に共鳴する。

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2008年10月 6日 (月)

海坂創刊750号記念

遠州地方を拠点に幅広く俳句活動をしている俳誌に「海坂(うなさか)」がある。本年10月号は、創刊750号記念号となる。一口に750号といっても実に60有余年の歴史を持つことになる。

750 同誌の平賀扶人主宰によれば『「海坂」誕生の源流は、昭和21年6月、当時二俣町に疎開していた久野仙雨医学博士を中心に結成された俳誌「あやめ」に由来する。指導者は仙雨と羽公。編集、発行を沖青魚が担当、46版110ページの謄写印刷であった。昭和22年8月より瓜人も選者に加わり、活版印刷となった。現在の「海坂」に改められたのは昭和25年1月号からであり、表紙も雄渾な筆致の瓜人画か飾る事となった。爾来歳月を重ね、此処に創刊750号を迎えるに至った。云々』とある。

俳誌「海坂」は、百合山羽公、相生垣瓜人両蛇笏賞作家の共主宰の形で運営され、以後現在まで引き継がれ多くのすぐれた俳人を輩出している。

海坂と言えば何処かで耳にした方も大勢いらっしゃるだろうと思う。そう、藤沢周平の時代小説に出るのが「海坂藩」である。
向井敏の「海坂藩の侍たち」によれば、『藤沢周平が庄内藩を模して工夫した架空の藩を海坂藩と名付けた由来は、その昔、彼が会員の一人として加わり、しきりに投句していた俳句雑誌が「海坂」と名乗っていたことから来ている。』とある。

俳誌「海坂」は、水原秋桜子創刊の「馬醉木(あしび)」系に属しているがその馬醉木も亦平成19年(2007年)6月号を以って、第1000号を迎えている。

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2008年9月29日 (月)

懐かしきもの

楽器メーカーである日本楽器現ヤマハ)は、その商品構成がピアノオルガンそれにハーモニカという時代があった。
しかし、やがてハーモニカは脱落し、その売り上げの大半をピアノやオルガン、特にピアノに頼っていた。
そんな中で当時の川上源一社長は会社の将来を見据え、大多数の役員の反対を押し切ってエレクトーンの生産に踏み切った。これは当時としては大きなリスクを負う決断であっただけに、多くの反対意見のあったことも頷ける。
しかし数年後には社長の予見どおり、オルガンの売り上げを抜き去り、主力商品の一角を築き上げた。将にエレクトロニクス化の魁となった商品がエレクトーンであった。
以後のヤマハは、エレクトロニクス化を更に進め、楽器事業を核とする多角経営の道を辿り、世界のヤマハに成長した。

因みに、このような経緯を経て生れたエレクトーンの中でも、割合初期に属する段階で作られ、名器と言われたエレクトーンD-2Bがある。デザインも外装も音質も機能も一際すぐれていた。
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写真はそのエレクトーンで、背面に品番等の詳細が記されている。当時のエレクトーン生産に関与した者にとっては懐かしくも忘れ難い商品である。

これを契機に楽器業界もエレクトロニクス化が進むことになった。1955年前後のことである。

エレクトーンに絡む話は、経営者の先見性と決断の重要性を語る実例として関係者の間では良く知られた話である。
川上社長は更にヤマハ発動機を興し世界企業まで発展させた。その動機は先のヤマハのそれとは異なるものの、その決断に就いてはヤマハの時と同様な経緯であった事も関係者の間では知られている。 

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2008年8月29日 (金)

佐鳴湖

浜松市の西南方に佐鳴湖(さなるこ)がある。
東西600m、南北2.2Km、周囲7Km、面積119ha、水深2m。
三方原台地の水を集め浜名湖に注ぐ谷川が沖積期(約1万年前)に、南端に打ち寄せた砂州によって出口が塞がれて出来た自然湖で、現在は浜名湖と佐鳴川(入野川)で結ばれている。佐鳴湖周辺は風景明媚なので多くの郷土史家、歌人、俳人、画家等が訪れ、賀茂真淵や杉浦国頭等の短歌もある。
   小夜更けて松風高き山寺の
      月はうき代の塵も曇らず    真淵
   入江吹くあき風はやみ浪かけて
      萩のはさわし音そ身にしむ  国頭
Photo
江戸時代末期、入野の文学者・竹村広蔭(ひろかげ)は、その風景に感動し、近江八景にちなんで佐鳴八景と言って愛でた。佐鳴湖の、
 西側:太田の落雁大山の夜雨少林山の秋月
 東側:大良の暮雪三ツ山の晴嵐西湖山の晩鐘
 出口:北浦の帰帆大屋橋の夕照
の八景で、時代と共に周辺の風景も変ったが、当時の竹村の短歌には往時の景が蘇る。(後に昭和時代の歌人・高峰 博も八景を詠んでいるが今回は略。)

太田落雁  かき連ね落ちくる雁の玉づさの
         数も太田のよいのあけぼの
大山夜雨  夜の雨の晴れゆくままに吹く風の
         音にぞひびく大山の松
少林山秋月 影高くうき世はなれて照らすかな
          少林山の秋の夜の月
大良暮雪  払ひあへず重げに見えて見る人は
         大良の山の雪の夕暮
三ツ山晴嵐 山姫の晒せる布と三ツ山の
         あらしに寄する磯の白波
西湖山晩鐘 湖の山もほのかに見えねども
          かすみわけ来る入あいの鐘
北浦帰帆  真帆ひきて舟を並べてきほふなる
         北浦風の吹くにまかせて
大屋橋夕照 ひむがしの浜松の市過ぎ来たる
         夕日にわたるをちこちの人

歌詞は、佐鳴湖の東側台地上の老舗「佐鳴湖ホテル鳥善」の伊達善一郎氏の「佐鳴湖八景(昭和57年10月刊)」から主として引用した。

岸には一部に葦がびっしりと生え、湖を取り囲む台地にかけて坂がかる周囲は鬱蒼と木々が茂り、法師蝉が鳴き、遊歩道に遊んでいる鳥は人が近づいても殆ど逃げない。散策の人も釣をする人も、漕艇の学生もいて、近辺市民憩いの公園になっている。

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2008年8月28日 (木)

上醍醐寺

8月24日の深夜、京都市伏見区にある上醍醐寺で、本尊の准胝(じゅんてい)観世音菩薩を祀ってある、准胝堂が全焼した。

附近には国宝の薬師堂、重要文化財の開山堂、同じく如意輪堂がある。
写真は2006年11月に参拝した時の准胝堂である。
Photo
醍醐寺に依ると、『23日23時頃、大きな雷鳴の直後停電があった。火災はその後に起きたとみられ、「落雷が原因と思われる」』としている。山科署によると、『火災に気づいた僧侶二人は、山中で携帯電話が通じず、停電で電話も使えなかったため、徒歩で下山し通報した』という。
この准胝堂までの山路は麓まで3Km以上歩かなければならない。

Photo 写真(2葉)は、その山路の一部の写真である。
ガイドブックによると西国札所中、もっとも苦しいところで、この観音は「汗観音」とも言われ、それだけ上るのに大変な所という事であろう。
私たちが参拝した時も、老人が主体ともあって、行けども行けども、たどり着かない感じで、降りてくる人に聞いて見ると「まだ序の口ですよ」とか「まだ半ば位でしょう」などと言われ、一人で行ったら恐らく途中から引き返してしまったかもしれない。それだけに上りきって観音堂に辿りつくとほっとして清々しい気分にもなる。下界には京都の市中が広がって眺望も絶佳である。
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准胝堂に就いて寺の説明書から必要箇所だけ抜粋すると、
『創建は貞観(じょうかん)16年(874)で…開眼法会が営まれた。しかし再度の炎上と再建を重ねたことは惜しみてもあまりあるものがある。…この新堂は、十方施主の浄財寄進により、昭和43年5月に再建落慶をみたものである。』と、ある。

これだけの堂が再建後僅か40年で再び消失するとは大変なことである。
歴史ある大寺であるから当然再建されるに相違ないが、幸い今回の火災を免れた国宝や重要文化財もある。
今までの火災原因を精査し、防火・消火に就いて、通信手段や景観も含めて、至急抜本的な対策を講じて欲しいと願うのは私だけではないと思う。

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