2012年1月27日 (金)

今も残る民族の病

佐久間象川氏が、「武野・武治氏の生き方」を捉えて記事を書いている。
その記事を読んで思い出すことがある。

1976年1月3日付けの朝日新聞のコラムに、むのたけじ 今も残る民族の病」 が掲載されていた。内容をスクラップから書き出してみる。

『50年間未解決のままひきずってきた「日本民族の病」がある。
或る中国人ジャーナリストが戦時中指摘した。「都合の良いときは本質を考えず、都合の悪い時は考える余裕がない」と。その通りだった。
戦争中に全身を汚した人物がいま胸を張って大手を振って生きている。
判断力をなくして戦争に加わった民族はいま又、判断力を欠く。戦争に罪を感じ人生を変えた純粋な人は多い。
だが個人的な完結に終わって大きな力にはならなかった。
「民族の病」は今も深々と食い込んでいる。』 と書かれていた。

この記事は今から30余年前に書かれたものだが、今、読み直してみても矛盾を感じない。
過日、太田秀興氏より東北大震災に絡む問題まで含めて貴重なご意見を頂いたが、そのご意見も、象川氏のご意見と相通じるものがあり、上記、むのたけじ氏の論を彷彿とさせる。

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2012年1月18日 (水)

職責

『イタリア中部沖のジリオ島付近で1月13日夜に起きた地中海クルーズ中の豪華客船コスタ・コンコルディア(乗客乗員4200人)の座礁事故。行方不明者が船内に取り残されていないか懸命の捜索は17日も続いた。最悪の場合は船が完全に沈没する恐れもあり、時間との闘いとなっている。一方船長の無責任な行動が次々と明らかになり、関係者の怒りを買っている。

フランチェスコ・スケッティーノ船長(52)は乗客より先にジリオ島に避難したとして過失致死容疑で検察当局に身柄を拘束された。(係官が「船に戻ってください」と言っても受け入れなかったとも言う。)船から救助信号が発せられたのは浸水開始から約1時間後。乗客の一人が家族に電話で伝え、通報を受けた管轄の港湾監督事務所が船に無線で問い合わせたが船長は「大丈夫だ」と繰り返し、中々救助信号を出そうとしなかったという。船長は乗客乗員の救出が続いているのに船から避難したという。』

勿論年代も環境や状況も違っているとはいうものの、私は一瞬嘗てのタイタニック遭難を連想した。そして我々の年代ですら記憶から忘れ去られようとしている「佐久間艇長」の話を思い出した。

佐久間艇長の話はwikipediaによると、
『日本海海戦を戦った、佐久間 勉は、1908年(明治41年)11月、第六潜水艇隊艇長を命ぜられた。
1910年(明治43年)4月15日、第六潜水艇は山口県新湊沖で半潜航訓練中に沈没、佐久間以下14名が殉職した。その際、ほぼ全員が持ち場を離れず死亡しており、持ち場以外にいた者も潜水艇の修繕にあたっていた
佐久間自身はガスが充満し死期の迫る中、明治天皇に対する潜水艇の喪失と部下の死を謝罪し、次にこの事故が潜水艇発展の妨げにならないことを願い、事故原因の分析を記した後、遺言を書いた。

この事故より先にイタリア海軍で似たような事故があった際、乗員が脱出用のハッチに折り重なったり、他人より先に脱出しようとして乱闘をしたまま死んでいる醜態を晒していた。』と、ある。

佐久間艇長は軍人であり、スケッティーノ船長は民間人という差はあるものの、職責遂行という観点から彼我の差は歴然としている。偶々此処に取り上げたのは船の事故または遭難に絡む職責の問題であるが勿論、業務等すべてに該当する問題である。

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2012年1月14日 (土)

潔癖さ貫いた硬骨漢

露の世に、芥のような人が群れる中、潔癖さを貫いた硬骨漢、城山三郎の生き方や著書は、多大な感動と、鬱勃たる勇気と、爽やかな読後感を与えてくれる。
日経新聞に「忘れがたき文士たち」と題する連載記事がある。その中に、城山三郎が取り上げられていた。

城山三郎は伝記文学で有名だが、彼は言う。(同記事から一部引用する)
『司馬遼太郎さんは「街道をゆく」を書いたが、伝記文学は「人間をゆく」ことだと思う。自分とは別の人生、男のロマンを追体験できる。人間は一度しか生きられないが、何人もの人生を生きられる。それが伝記文学の魅力ですね。』

事実、『「落日燃ゆ」は、昭和天皇を守る為に進んで罪を被り、東京裁判で民間人として唯一死刑になった広田弘毅を、
男子の本懐」は昭和初期に右翼の凶弾に倒れた浜口雄幸と井上準之助を、
粗にして野だが卑ではない」は勲一等を固辞した石田禮助を、
官僚たちの夏」は通産官僚、佐橋滋が国家のために、時の総理を痛烈に批判した事実が記されている。』

『城山三郎自身も潔癖だった。少年時代に軍神杉本五郎中佐の「大義」を読んで愛国少年となり「お国のために尽くそう」と敗戦の3ケ月前に海軍特別幹部練習生に志願入隊した。17歳だった。しかし憧れの帝国海軍は大義の世界とは異なり腐敗していた。早朝から夜更けまで、こん棒で殴られ、悪夢の日々を過ごした。
敗戦後、指導者たちは豹変して民主主義を唱え始めた。「軍隊で堕落した組織にいじめられ、敗戦でそれまで信じてきた忠君愛国の思想が間違いだったとされ、国家から二重に裏切られた。個人がどんなに頑張ろうとも指導者が方向を間違えると国は滅びる。つらい戦争の体験だけは遺して置きたいと思った。』
そして指導者に厳しい眼を向けるようになった。

日経新聞に「私の履歴書」の記事がある。城山三郎も掲載される予定になっていたが、執筆途中、高熱を発して緊急入院し、記事の半分を書いたところで他界したのは返す返すも残念だ。
未完の絶筆「私の履歴書」は「文芸春秋」に掲載されて「嬉しうて、そして……」(文春文庫)に収録されたと聞く。
「私の履歴書」は、『城山自身の文学の原点である戦争体験について多くの筆を費やしている。国民が十分な知識を得られないままに無謀な戦争に突入したこと、「水中特攻隊」など信じられないような兵器が編み出され、青年たちを次々と死なせようとしたこと……。「腹が立つより、悲しくなる」と書いていた。』

かくいう我々も、戦争が勃発した時、純粋に、強いて言えば根拠も無いまま、日本は必ず勝つと信じて疑わなかった。
戦時中、理工系学徒として兵役延期になっていた我々は、学徒動員はされたものの、軍隊生活も、軍隊の内部事情も、戦争体験も無く終戦を迎えた。そして後から彼我の戦力比較や、戦略比較を知ったが、それはあくまで戦後のこと。

潔癖さを貫いた硬骨漢、城山三郎の生き方に学ぶことは、これからの日本のあり方に就いて考える一助になることは間違いない。

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2012年1月13日 (金)

年迎ふ

俳人協会・俳句文学館発行、平成24年1月の俳句カレンダーに鷹羽狩行氏の一句が掲載されている。

年迎ふ山河それぞれ位置に就き 鷹羽 狩行

2401_3 太田かほり氏の解説文がある。

『独創的で大胆な擬人法である。山河に倣い人間の心身も引き締まる。山河は、日本人が最も畏敬の念をもって真向かうものの一つ、それもランク付けすればかなりの上位に位置する対象である。 四季いずれにおいても、いかなる状況においても、山河とともにあるのが日本人の根本的な精神であった。
 山河すなわち自然、多くの人々にとってふるさとの山河すなわち自然であった。だが、今の日本はうち続く災害に見舞われ、その山河さえも危うい状況に陥っている。
 しかしながら、物理的にどうであれ、「国敗れて山河あり」は心の真実である。如何なる地震も、津波も、原発も、心の山河までも奪い去ることはできない。今まさに位置に就く。スタートに備えて万端整え合図を待つばかりの緊張の一瞬である。
 今年、我々は挙って悲愁の底から出発する。この句は平成16年の作であるが、かつてない災害を経験して新たな意味をもつことに感銘を受ける。
 詩歌の普遍をこの句に見る。(太田かほり)』

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2012年1月12日 (木)

生涯の一句

石田波郷没後40年を記念して設立された「石田波郷俳句大会」が第3回を迎え、清瀬市で行われた。この大会は清瀬に縁の深い波郷の名を後世に伝え、また市民が俳句に親しむ豊かな町づくりを目指して平成21年より開催。全国より応募者があり盛況裡に終わった。

大会作品集の冒頭には、波郷のご子息である、石田修大(のぶお)氏が「生涯の一句」と題する一文を寄せている。
『………波郷の最初の師、五十崎古郷は30半ばで俳句を始め、「馬酔木」同人にもなった人だが、40歳で亡くなったため、2000余句の殆どは自らの句風を開くための習作に終わったという。だがそのなかの
    寝待月灯の色に似て出でにけり
一句だけで古郷俳句は朽ちないと、波郷は断言する。そして「俺には生涯の句があるだらうか」と独白するのである。
波郷の名を冠した清瀬の俳句大会も3回目を迎えた。縁あってこの大会に投句、入選された皆様には、ひきつづき俳句を作りつづけていただきたい。自分を偽らぬ俳句をつくりつづければ、いつかは生涯の一句を手にする幸せが得られる…はずだ。俳神の加護はなくとも、あの世の波郷が手を貸してくれるかもしれない。』
Photo
本大会より、石田修大著「我生きてこの句を成せり~石田波郷とその時代」(本阿弥書店刊)を頂いた。

本書の概要について、

目次から抜粋すると、『「馬酔木」の三羽烏/ 虚子・秋桜子それぞれの道/ 大友柳太郎の誘い/ 病古郷との俳句修行/ ”仮想敵手”草田男/ 馬酔木の若手 窓秋・竹秋子/…無季俳句に走る/ 友二・古郷ー出会いと別れ/辰之助去り「鶴」創刊/ 夜毎の新興俳句征伐/ 難解な人間探求派/ 「京大俳句」特高が急襲/ 囮にされた三鬼/ 「馬酔木」を去る楸邨・波郷/ 韻文精神 戦場に呻吟す/ それぞれの終戦/ 俳句復刊/百家争鳴/ 「第二芸術」の弔鐘を撞く/ 俳句で食えるか 協会設立/ 療養生活を詠う仲間たち/ 「馬酔木」復帰・30周年を祝す/ 生涯の一句』

といった内容が盛られていて興味深い。

波郷をとりまく俳句の黄金時代」について、
『私は、私の行く道はもうこの他にないと思った。新興俳句の開花期に、多くの新興俳句の担ひ手である友人たちと交はりつつただひとり伝統派にとどまって胸を張って拮抗し得たのは、この自負によったに他ならない。』と述べている。

戦前・戦中・戦後を通じて俳句はどんな経緯を辿ったか、どんな葛藤があったか。
戦中の特高の暗躍、戦後の所謂 桑原武夫による「第二芸術論」に就いての論争も興味深い。

戦後俳壇が漸く活動を再開しようとしていた、まさにその時期に外部から俳壇にポイと手榴弾のように投げ込まれたのが、いわゆる「第二芸術論」だった。
仏文学者・評論家の桑原武夫が雑誌「世界」に発表した「第二芸術ー現代俳句についてー」で、『俳句は菊作りのような消閑の具にすぎず、しいて芸術の名を要求するなら「第二芸術」と呼んで、他と区別するのがよい』と主張した。
「第二芸術論」に対して、俳壇の大勢は自省のきっかけと受け止め、桑原らとの激論には至らなかった。それだけ俳壇の懐が深いというより、底なし沼のような状態だったのかもしれない。

石田波郷を中心に纏められた本書の内容は、俳壇の趨勢と俳句内容の変遷をするのに適当な書と言える。

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2011年12月23日 (金)

俳句「新年詠」

角川学芸出版から出ている俳誌「俳句」の1月号には、毎年「新年詠」に就いて特集が組まれている。昨日の夕方届いた2012年1月号にも例年のように特集が組まれている。
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本来ならじっくりと味わうべきだが、取り敢えず表面づらだけ読み過ごした。そのなかで、何かひっかかった句を取り上げる。後刻又、精読したら別稿で書く心算だ。

新年詠の、「初句会にこの一句」の欄で、辻恵美子氏が『作句の心構えとして、日常にあっては旅にあるごとく心を奮い、旅にあっては日常のごとく心を鎮めるのがよいわけで、新年詠は、新年らしく作らないのがいいといえる。』として例句を挙げている。
これは同誌10月号に、橋本榮治氏が「吟行の心構え」の中で『徒に美しい風景ばかりに目を向けず、其処に生涯住み着くことになったらどうだろうか、と考えてみることだ。つまり、他郷を故郷のごとく、逆に又故郷にあっては、時に他郷のおもいをこめて四時見慣れた風景を改めて見直してみることである。』と言っていたのに符合する。

   正月やいろはに散りて庭すずめ   鷹羽狩行
   数の子を埋蔵金のごとく出す     鷹羽狩行
   賀状書くことなくなりていくとせぞ   鷹羽狩行
   あきらかに過ぎし日重ね去年今年  稲畑汀子
   古日記あの時か我が関ヶ原      有馬明人
       この句を読んで胸が熱くなった、私にも同じ想いがある。
   したためし一字にはかに初昔     有馬明人
   初稽古身体髪膚祖(おや)に受け   深見けん二
   神よりも釈迦なつかしむ竜の玉    神蔵器
   露の世に生れて逢ひし雪女      真鍋呉夫
   手毬つく日露の役はよく弾み      八田木枯
   円空の道はせを道恵方道      黒田杏子
   行間に心溢れて初便         千原叡子
   鏡餅昔電話は玄関に         小川軽舟
 今ではどの家庭にも電話があるし、携帯電話も普及しているが、掲句の時代は、電話を持っている家庭は少なく、そして決まって玄関に置いてあった。今から考えると可笑しなことだが、私の家の電話も引いた当時は玄関に置いてあった。今のように長電話することも無く用件だけを手際よく話して済ませたからそんな場所でも良かったのだろう。懐かしさを想い起してくれる句である。
   その人のことには触れず年忘れ   片山由美子 
   みちのくや上りつめたる後の月    大峯あきら

冒頭述べたように、字面を追って読み進めなぞった句で、自分の生きてきた経歴、生きてきた時代背景をフィルターとして抜書きしたもので他意はない。
昨日は冬至。今日から昼の時間が長くなる。

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2011年12月17日 (土)

聖者は痩せて

俳人協会・俳句文学館発行、平成23年12月俳句カレンダーに鷹羽狩行氏の一句が掲載されている。
(狩行氏は、蛇笏賞受賞作家であり、現在、俳誌「狩」を主宰し、俳人協会会長・日本文芸家協会理事の要職にもある。)

 昔より聖者は痩せて枯芭蕉 鷹羽狩行

2312_2 俳誌「白魚火(しらをび)」主宰である仁尾正文氏の鑑賞文がある。

『平成7年12月号の「俳句研究」で「今年の秀句ベスト5」の特集があり私はこの「枯芭蕉」を鑑賞した。出典は「俳壇」1月号だから、平成6年作。この句は狩行氏の句集「十一面」に収録され、帯の自選11句にも抄出されている。
 枯れさらばえた芭蕉が従容と立っている。作者はこの景に聖者の姿を重ねた。「徒然草」第49段に登場の心戒という聖は居住も定めず、風雲に身を任せ、痩せてくろずんでいたという。 生活を極限まで簡素化し、心の中に豊かさを求めた良寛、西行、芭蕉の清貧の系譜を思い、強く共感した。
 平成7年刊の「鷹羽狩行の世界」は534ページ、174名が執筆しているが「枯芭蕉」の句に触れたものはなかった。
 俳人協会創立50周年の掉尾の12月のカレンダーに、鷹羽会長がこの句を揮毫された。
 氏の傘寿記念に出した「山河」は、既刊の句集1万句を333句に絞った超厳選で、「自選こそ創作」と言わしめた中に「枯芭蕉」の句があり、感銘を深くした。(仁尾 正文)』

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2011年11月30日 (水)

自註句集「青木華都子集」

俳誌・白魚火(しらをび)副主宰である青木華都子さんから、句集「青木華都子集」(自註現代俳句シリーズ・1150、俳人協会刊)を頂いた。

Photo 著者の「あとがき」に、『この自註句集は昭和58年から平成22年までの作品から300句抄出した。縁あって「白魚火」に入会した時期と栃木県日・韓女性親善協会を設立した時期と同じ年であり感慨深く、私の第二句集にも記したが「二兎を追うものは一兎をも得ず」と言われるが、あえて二兎を追うことにした。そのことにより新たな緊張感が私の気持をかき立てたのである。家族のこと、誌友のこと、韓国のことなど今まで歩んで来た、さまざまな思い出がほうふつとしてよみがえり、俳句に、そして日・韓親善に新たな一歩を踏み出すことができた。』とある。

「白魚火」副主宰という重責を負いながら、且つ年に2回以上韓国を訪問し、日韓親善の役目を果たし、時には日韓の通訳まで果すという活動家である。句にもさりげなくその状況が詠われている。

句集は、著者自選300句に自註を付したもので、配列はおおよそ年代順となっている。

 

 自然のものには心の中の想いをめぐらせ

  萩咲くや少し歪みし長屋門

  大銀杏一糸纏はず冬に入る

  一つ咲き一つが終る野甘草

  一花二花あとは蕾の夏椿

  手にのせてより密かめく落し文

  どの足も休まず百足歩くかな

  一塊の石にも霊気青すすき

  色即是空空即是色筆始

  また一つ消ゆる村の名麦青む

  酒蔵は女人禁制木々芽吹く

  呪文解くやうに一輪梅ひらく

  味噌樽の箍締め直す十二月

 人には自然を配し

  空鋏鳴らして始む松手入

  蛙に目貸して一駅だけの旅

  手つかづの稿そのままに桜の夜

  ペン持ちしままのうたた寝山笑ふ

  遠霞知覧に少年兵の遺書

 韓国との親善関係の活動も活発に

  秋惜しむ膝立て座るチマチョゴリ

  日本を離れてよりの秋思かな

  ハングル語すらすら話し小六月

  衛兵の直立不動いちやう散る

  着せられて意外に涼しチマチョゴリ

地方色も濃く滲んで

  一切を拒み華厳の滝氷る

  命灯を入れて練り出すねぷたかな

  蹴轆轤を休め益子の秋深む

  御成り坂涼しき杉の五千本

  すくと立つ吹雪の中の太郎杉

  浜名湖の旅の土産の白鰻

 女丈夫ぶり躍如、そんな女丈夫に思わぬ敵も

   杉花粉よく飛ぶ日なりねむり猫

   ごり押しの効かぬ齢やかき氷

   当選の胸に真つ赤な冬薔薇

   胴上げをされ冬天を掴みたる

 活動家も生身の人間、時には怪我をすることだって

  松葉杖ついていつもと違ふ秋

   秋晴や杖を忘るるほどに癒ゆ

   痛い指脈打つてゐて明易し

   生え変る爪もも色や冬間近か

家族のことをしみじみと詠んで

   夫と子の男の会話お元日

   春浅し子に一通のラブレター

   紅葉狩り夫とは他人顔をして

   父の忌が近づく庭の梅ひらく

   夫の座の左右に子の座お元日

   花寒しすぐに眠つてしまふ母

   母よりと分る名無しの年賀状

     

二兎を追って二兎を得た女史の面目躍如たるものがある。
勇気と仄々とした読後感を頂いた。

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2011年11月 7日 (月)

二人三脚

俳人協会・俳句文学館発行、平成23年11月の俳句カレンダーに馬醉木主宰・水原春郎氏の一句が掲載されている。
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  余生こそ二人三脚花八手 
                               水原春郎

渡辺千枝子氏の解説がある。

『二人三脚の1.5脚は、もちろん康子夫人である。
 夫人のご文章を引用させていただくと、

「私は神田育ちだが生まれたのは本郷湯島で水原の家の隣であった。水原と私の里の神戸の家は、私の生まれる以前からの知人で、母同士が御茶の水の同級生、兄と春郎も幼稚園から一緒、姉たちや妹も御茶の水の同窓という長い糸で結ばれ、私達兄弟はみな水原の父の手によって生まれた。
私の誕生の時、春郎は家の前を三輪車で遊んでいたという」というえにしのお二人である。
すでにダイヤモンド婚も祝われた余生の平穏を、地味だが、滋味深い八つ手の咲く日向が見事に象徴している。
 春郎先生に愛妻俳句の多いのは周知のことで、その極め付けが
       願はくは来世も君と冷し酒
であろう。
因みに春郎先生のお嫁さんに「康子ちゃんがいいよ」とおっしゃったのは秋櫻子先生とのこと。(渡邊千枝子)』

何か仄々としたものを感じさせてくれる句である。

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2011年11月 4日 (金)

東地中海に咲く百合

文化の日、東京・王子駅近傍の、「北とぴあ・つつじホール」で、「東地中海に咲く百合(Lilium Orientalis)」と題する音楽会が開催された。

本公演の狙いは、「1192年から1489年までリュジニャン王家によって支配されたキプロス島では、地中海の東端に位置しながらヨーロッパ文化、特にフランス文化が栄えていた。特にその文化活動が盛んになった15世紀初頭のこの島の音楽を伝えるのが、Torino J.II.9という写本である。歌と当時の楽器を用いながら、この写本に含まれる宗教曲(ミサ曲)、及び当時の王妃とともに作曲家としてキプロス島へ移り、最新の音楽を伝えたジレ・ヴリュの作品を扱い、当時キプロス島にもたらされ、そして醸成された中世末期のキプロス島における宗教音楽環境の再構築を試みる。 」である。

演奏者は、
   横町あゆみ・名倉亜矢子長尾譲春日保人
   プサルテリウムオルガネット矢野薫
   フィーデルなかやまはるみ
   リコーダー音楽監督守谷敦

守谷敦によると、「Liliumとは百合のことでフランスの象徴である。殆どの楽曲が現在ヨーロッパ内でもほとんど演奏されることなく、日本では初演であろうこれらの作品群は、中世末期に地中海の東に咲き誇ったまさに東方の百合である。そして今日21世紀に日本でこれらの楽曲が奏される時、それはもう一つの東方に咲く百合、Lilium Orientalis と呼ぶことができるだろう。」と述べている。

上記写本は5ブロックに明確に分けられている。①単声聖歌 ②多声ミサ曲 ③モテット ④バラード ⑤ヴィルレ&ロンドー で、今回の演奏は②ブロックに収められているミサ曲である。

楽器も当時の楽器とあって聞きなれない、または見慣れないものがあり、ネット情報から拾って見ると
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写真左はプサルテリウム、中はオルガネット(手前の人が弾いている携帯用パイプオルガン風の楽器)、右はフィーデルの一種で、それにリコーダーを加えた楽器と 声楽によって演奏された。(写真はいづれもクリックで拡大します)

演奏は守谷敦の鳴らすスモール・ベルの音から始まって、1時間15分間、途中休憩も無く続けられた。宗教曲とあって、終始荘厳な響きと心地よいハーモニーを場内に響かせ、数百人の聴衆も聴きほれた。
会場は節電ということもあったのか比較的暑く、休憩なしの1時間15分は演奏者も大変だったろう。

それにしても限られた日時の内に、夫々の演奏者が、これだけの曲を理解し、合わせ、そして一糸乱れない演奏をして聴衆を魅了させたのに感動した。

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